葬儀が終わったらすぐに準備を…「四十九日法要」までに必ず済ませておきたい〈8つのこと〉

(※写真はイメージです/PIXTA)

バタバタと葬儀を終えたあとも、「四十九日法要(納骨式)」が待っています。悲しみも癒えず、ゆっくり準備を進めたいところですが、『親を見送る喪のしごと』の著者で作家・エッセイストの横森理香氏は「やるべきことが多いため、葬儀後すぐに準備を始めるべき」といいます。四十九日法要までの具体的なタスクや準備物について、筆者の経験を交えて詳しくみていきましょう。

葬儀が終わったら、四十九日までは自宅に「祭壇」を設ける

仏教の場合、初七日の法要は葬儀の際済ませてしまうことが多い。亡くなってから七日目は死者が三途の川を渡る日とされ、この川が激流か中流か緩流かのお裁きを受ける大切な日なので、緩流を渡れるように法要するのだとか。

四十九日まで遺族は祭壇を設け、故人が極楽浄土に行けるよう供養すべきらしい。今回、執筆にあたってネットで調べたら、そういう意味があったのかと初めて知った。

中陰壇(ちゅういんだん)といい、葬儀の後、そこに遺骨、遺影、白木の位牌を安置し、お花や燈明、香炉を置く。そしてできるだけその前に座り、手をあわせるべきと書いてある。特に閻魔様のお裁きを受ける三十五日目は、丁寧にお祈りしたほうがいいのだとか。

飾り方に決まりはない…仏壇がなくてもOK、自分なりの祭壇を作ろう

遺品の整理をしつつ、四十九日の準備と、あとから来るお悔みの対応に追われた。母の死を知った私の仕事関係の方々が、お花やお香典を持って来てくださったので、私は事務所にも、母の祭壇を作った。

ファックス台にしていた木製のキャビネットに遺影とお花を飾り、バカラのショットグラスを水差しに、ガラス製の線香立てを置き、弔問客に備えた。遺影には1度も着けることがなかった白蝶真珠のネックレスをかけ、カメオのブレスレット、オストリッチのバッグもお供えした。

仏壇は家にあったが、そこには猫2匹と2歳児、ベビーシッターのフィリピン人がいた。わやくちゃになっているので、弔問客はお招きできない。故人を偲び、ゆっくり話すこともできないのだ。

こういう事情がない方も、仏壇がない場合、祭壇を作るのをおすすめする。現代の生活に合う仏壇といってもお高いし、わざわざ買うより自分なりの素敵な祭壇を作るのだ。これは無宗教でもアリだし、お祈りスペースとしても〇。

四十九日とは?

四十九日は忌明けとされ、喪に服していた遺族が日常生活に戻る日です。故人が亡くなった日を一日目とし、そこから数えて四十九日目のことをいいます。法要を行う場合は、実際の日か、それよりも前に。また、本位牌や仏壇の準備も必要になります。

「位牌」は四十九日までに必ず準備を

ネット調べで、私が事務所に作った祭壇は、中陰壇だったのかと驚いた。便宜的に設えたものではあったが、母の差し金だったのだろう。

白木の位牌は佐藤先生宅にあった。生前戒名が赤字で掘られた位牌が菩提寺にあり、それを命日も入れて四十九日に間に合うよう、金字に塗り替えてもらっていた。

生前戒名などない場合は、亡くなったらまず菩提寺に連絡をして、戒名をつけてもらうところから始めなければいけない。寺に嫁いだ友人に聞くと、「菩提寺と葬儀社と檀家さんで葬儀の日取りを決め、葬儀までに住職がお戒名をつけます」と言う。

お経の中に戒名を読み上げるので、戒名は必須なのだ。でも、そんなお金はかけられないという方は、自分で戒名をつけるやり方もネットに出ていた。不況、物価高のいま、自力戒名もいいんじゃないだろうか。

「命日から数えて3ヵ月にまたがってはいけない」…納骨式は早めに

「法事は3ヵ月にまたがっちゃダメ」と伯母に言われ、菩提寺に納骨式の日にちを変更してもらった。四十九日前でも、早い分にはいいというのだ。さらに、どの親戚や研究会の人たちを呼んだらいいか。これまたキーパーソンの確保が大事だ。

父方の親戚筋は従姉のミサちゃんに、母方は従姉の千津子姉さんに、研究会関係は浅川先生にお願いした。伯父たち、伯母たちもすでに他界していて、両家集めてもわずか三十人ぐらいのものだったから、電話連絡で事足りると思いきや、親戚の中にはちゃんとした書面でもらわねば困る、という人もいて、その作成もせねばならなかった。

どんな文章で書いたらよいかわからず、当時はネットで調べることもできず、佐藤先生に尋ねると、「理香さんらしい文章でいいんじゃないかな」と言われたので、適当にパソコンで書き、プリントして郵送した。

法事のあとの会食場所も、ミサちゃんにお願いした。私が山梨を離れたのはまだ高校生だったので、どこの料理屋さんがいいかとか、まったくわからない観光客レベルだったからだ。

四十九日の準備

やるべきことが多いため、葬儀後すぐに準備を始めましょう。

①日程を決める

②会場(自宅や菩提寺、ホテル、セレモニーホール等)を決める

③僧侶の手配

④案内状の作成・発送

⑤会食の手配

⑥引き出物の手配

⑦位牌の手配

⑧お布施やお車代の手配

当日の服装は喪服が一般的です。

“僧侶へのお礼”=「お布施」は、無地の袋に

四十九日は四月の最後の日曜日に行った。それはちょうど、山梨が桃の花で桃源郷になる時期だった。これも母が図ったとしか思えないタイミングで、車窓からそれを目にした私は、感銘を受けた。策士やなぁと(笑)。

季節もちょうど、寒くなく暑くなく、年寄りが集まっても具合悪くならない陽気だった。納骨式に集まった面々は、菩提寺の桜吹雪の中にいた。この演出も素晴らしかった。天気も良かった。母は本当に、恵まれた人だったのだ。

法事の前日、佐藤先生は遺骨を抱えて上京した。1人では新幹線でお骨を置きっぱなしではトイレにも行けないからと、姉と子どもたちが迎えに行った。私は菩提寺へのお布施80万円を包む無地の袋を嵩山堂はし本へ買いに走った。

これも親友に聞いたのだが、僧侶へのお礼は無地の袋(和紙)に入れるものだそうだ。80万円を入れた袋は、母の名入り、紫ちりめんの不祝儀袱紗に包み、持参した。

お骨はなんせ骨壺に入っていないため、そして喉仏と歯が入っていないため、事前にやらねばならないことがあった。菩提寺に事情を話し骨壺を取り寄せてもらい、前日に山梨入りしてお骨を移し替えたのだ。

これは内輪で、秘密裏に行わねばならなかった。歯と喉仏を事実婚だった佐藤先生に分骨したことが親戚にバレたら、どんな非難を受けるかわからない。何もしなくても文句だけは言う。渡る世間は鬼ばかりだ。

体裁を整えるために遺族が苦労する。それも喪のしごと。母のことで心が通じ合っていたのは、最後の12年半を共に歩んでくれた佐藤先生だけだったような気がする。

佐藤先生は老人ホームに入る前まで、何度か山梨にお墓参りに行きたいと言って上京した。菩提寺は甲府駅からも離れているから、うちの車で連れてってくれと。いつも滞在する調布のお嬢さんの家まで迎えに行き、山梨に参った。

「これが最後の墓参りになると思うから」と言われて一緒に行ったときのことを思い出す。佐藤先生はすでに耳が悪く、乗り換えるはずだった在来線に乗り遅れてしまった。それで4時間、次の電車を待って、大変な思いをしたのである。

最後の墓参りは、ドライブして山中湖のワインセラーにも寄った。ワインが大好きな方だった。ほうとうをみんなで食べて、ビールで乾杯した。あれが佐藤先生との最後の食事だった。

それからも老人ホームに入るまでは、毎年秋に、新米のきりたんぽ鍋セットを送ってくれた。血はつながってないが、第2の父だったのだ。

横森 理香
一般社団法人日本大人女子協会 代表
作家/エッセイスト

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