『落下の解剖学』見えない真実に目を凝らす

『落下の解剖学』あらすじ

人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。はじめは事故と思われたが、次第にベストセラー作家である妻サンドラに殺人容疑が向けられる。現場に居合わせたのは、視覚障がいのある11歳の息子だけ。証人や検事により、夫婦の秘密や嘘が暴露され、登場人物の数だけ<真実>が現れるが──。

ファーストシーン


真っ黒な画面に、女性ふたりが会話する声だけが響く。明転。階段をバウンドしながらボールが落ちてくる。ふんだんに光が差しこむ昼間の室内だから暗い雰囲気はないが、バウンドしながら階段を落ちるボールといえば、ピーター・メダック監督の『チェンジリング』(80)をはじめとする数多くのホラー映画にも登場していて、不穏な事態の接近を予感させるものだ(*1)。

この家の飼い犬が、ボールをひょいとくわえて階段を上がっていく。会話の主が画面に現われる。ベストセラー作家、サンドラ(ザンドラ・ヒュラー)と、論文執筆のためにインタビューにやって来た女子学生だ。本来なら質問をされる立場であるはずのサンドラが、学生に対して質問を始める。すると上の階から音楽が、ぶしつけに大音量で鳴りはじめる。夫が作業をしながら流しているのだ、いつものことだとサンドラは言うが、とてもインタビューを続けられる状況ではない。音楽が響きつづけるなか、車で去っていく学生をサンドラは見送る。ロングショットによって、サンドラの家は人里離れた雪山の山荘だとわかる。

『落下の解剖学』は、このファーストシーンでいくつかのことを宣言する。まず、ボールの落下に見られるように、これが「落下」を主題とする映画であること。それから、「質問される」ことが、のちの展開で重要になること。問う者と答える者の立場はしばしば反転すること。そして、その質疑はたびたび妨害される――つまり、論理的にスムーズには進行しないだろうことを。

『落下の解剖学』©2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma

もちろん主題の提示だけがこのシーンの役目ではない。サンドラと夫サミュエル(サミュエル・タイス)のこのときの関係を、部分的に暗示してもいる。また、このあとすぐにサミュエルは、雪上で亡くなっているところを、飼い犬を連れた11歳の息子、ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)に発見されるのだが、あの大音量の音楽はこの瞬間も、そのあと警察が駆けつけて検証を行なうシーンでも、とぎれることなく響いている。音楽は Bacao Rhythm & Steel Bandによる、50Cent “P.I.M.P.” のカバー。この演出効果は絶大であり、選曲も絶妙だ。メロディにそこはかとない哀調を含みながらも、スティールドラムの陽気な響きが対位法的な効果を上げるこの曲は、以後も事件を想起させるモチーフとなる。

状況からサミュエルは、屋根裏部屋の外のバルコニーから転落して死亡したと推測される。それは事故だったのか、自殺だったのか、それとも……。サンドラと前日に交わした会話の録音が彼のUSBメモリーから発見されたことで、サンドラに殺人容疑がかけられる。彼女は告訴され、かくしてサミュエルの「落下」の「解剖」が始まる(*2)。

転落死する男と疑惑の妻、そしてもうひとりの男


法廷での審理からやがてわかってくることに、夫妻の関係はさまざまな問題を抱えていた。すでに破綻していたと見る人もいるかもしれない。だとすれば、「落下」したのはサミュエルだけでなく、夫婦関係でもあったのだ。『LAタイムズ』のレビューの言葉を借りれば、裁判は「結婚の検死解剖」(an autopsy of a marriage)の様相をも帯びることとなっていく(*3)。

とはいえ、サンドラによる殺害を立証しようにも状況証拠しか存在しない。検事(アントワーヌ・レナルツ)は時に強引にも見える主張を展開し、彼女が犯人だという印象を作り上げようとする。この検事の外見が、法曹界の人間にはちょっと見えないのも面白い。

法廷を彩る人物としては、もちろんサンドラの弁護士、ヴァンサン(スワン・アルロー)にも注目せねばならない。夫が転落死して妻に殺人の嫌疑がかかる映画といえば、パク・チャヌクの『別れる決心』(22)であり、増村保造の『妻は告白する』(61)である。前者では事件を捜査する刑事が、後者では夫妻と親しくしていた製薬社員が、妻に翻弄され、恋に落ちる。この映画でその立場になる可能性があるのはヴァンサンだが、サンドラと彼の関係は非常に繊細だ。ふたりはずっと若いころにすでに何かがあったようなのだが、映画はそれを完全に明かすことはない。おそらくサンドラは彼の気持ちをある意味利用しているのだけれど、ヴァンサンのほうも承知の上だろう。物語の主軸になることはないこの微妙な関係性の描写も、映画の味わいに厚みを与える。

『落下の解剖学』©2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma

言葉と真実


審理の内容に移ろう。夫妻は問題を抱えていた。ダニエルの視覚障害の原因となった、7年前の事故をめぐって。サンドラが作品を次々発表して名声を博していくのに対し、作家志望のサミュエルは執筆すらままならなかったことについて。サンドラの性的指向と、放埓とも見える振る舞い。そしてサミュエルの構想していた作品をめぐる、ある決定的な出来事。

だが夫婦のかたちはさまざまだ。傍目にはどのように見えようとも、ふたりは上手く行っていたのかもしれない。口論のなかで相手を罵ったとしても、それが本心だとどうして言えるだろう? 人はしばしば心にもない言葉を口にする。その場の感情の勢いで、あるいは気持ちを隠すための演技として、あるいは相手を挑発するために。

『落下の解剖学』©2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma

真相を見えづらくしている要素はほかにもある。まず『別れる決心』同様、この物語には、異なる言語を行き来することによる齟齬の可能性が内包されている。サンドラはドイツ出身、サミュエルはフランス出身。ふたりはいわば「中間地帯」として、普段英語で会話していた。自分がほんとうに思っていることを、母語以外の言語でどこまで忠実に表現できるだろうか。そのうえサンドラは法廷で、英語よりも苦手だというフランス語で話すよう強いられさえするのだ。

もうひとつ、これがいちばん厄介なのだが、サンドラは自分の経験に基づいて書く作家であると同時に、「フィクションが現実を破壊」することをもくろむ作家でもあった。人々は事件に彼女の作品を重ね、法廷のなかで、あるいは裁判を報じる言説のなかで、現実はフィクションに侵食されていく。

真の主人公


かくもこの映画は多面的な読解へと開かれている。それを可能としているのは、第一には、ザンドラ・ヒュラーによる余白を残した演技だ。そしてもちろん映画自体も、彼女の演技同様、多義性を徹底的に貫く。証言が映像になって現われたとしても、それは証言を聴く者の心のなかで思い描かれた映像であって、実際の出来事自体を客観的に映したものではない。真実を知るのはサンドラ(とサミュエル)だけであり、検察が語る言葉も弁護側が語る言葉も、どちらも事態の主観的な「解釈」でしかなく、解釈には終わりがない。その場合、裁判とは真実を発見する場ではなく、検察側と弁護側、どちらの語る物語により強い説得力があるかを決める場でしかないのだ。多くの法廷映画が、判決が出たあとにそれをひっくり返すようなエピローグをつけているのは、裁判というもの自体がはらむこの弱みゆえである。

解釈の競い合いに決着をつけるのは誰か。ここでカギを握るのがダニエルだ。実は裁判シーンのかなりの部分は、「1年後」のテロップとともに登場するダニエルの、ピアノを弾きながらの回想だと考えることも可能なのである(*4)。証言が映像化されるシーンも、その大半は、彼が情景を思い描くことを契機に開始される。審理中、サンドラの姿はたびたび、ダニエルの肩越しのショット(疑似視点ショット)でとらえられる。この映画の真の主人公、真の語り手はダニエルだと言うこともできるだろう。

『落下の解剖学』©2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma

また、視覚障害のせいで視界が極度に制限されているダニエルの状況は、情報を部分的にしか供給されないわれわれ観客の状況の暗喩だとも取れる。いや、暗喩という言葉を出すまでもなく、持っている情報量という点で、彼はわたしたちと近い状態にある。ダニエルが取り調べに対して答えるシーンは、質問者の側の表情をとらえたショットが極端に少ない。切り返しショットを欠いたまま、えんえんと映されるダニエルの表情は、彼の困惑と混乱、よるべなき思いを強烈に伝える。法廷で初めて証言するシーンに至っては、検事と弁護士とが交互に質問するたび、ダニエルは律儀に質問者に顔を向けるのだが、ここでも切り返しショットが入ることはほとんどなく、キャメラは彼の顔を正面からとらえつづけるべく弧を描いて移動する。その結果わたしたちはダニエルが「振り回されて」いることを、目に見えるかたちで理解することとなる。

さらに、両親の抱えていた問題まで知ることになるのだから、ダニエルが精神的にいっそう過酷な状況に置かれることは言うまでもない。しかし、にもかかわらず彼は、真実を見つめることをあきらめない。あなたを傷つける話が出るからと、傍聴を見合わせるよう諭されても、彼は法廷へ向かう。視界の限られている目を凝らし、懸命に見ようとする。そして決断のときがやってくる。裁判を終わらせるのは、この裁判の語り手であるダニエルをおいてほかにない。雪上に父を見つけたときと同じ身振りを、彼が愛する者を相手に反復するのをきっかけに、事態は決着へと向かうことになるだろう。

(*1)階段をボールがバウンドしながら落ちてくるのはホラー映画だけではない。たとえばロバート・オッペンハイマーがモデルのひとりだとも言われる物理学者をゲーリー・クーパーが演じた、フリッツ・ラングの諜報スリラー『外套と短剣』(46)でも、このモチーフはサスペンスを効果的に盛り上げていた。これが使用された事例として筆者が確認できた最も古い作品は、最初期のワイドスクリーン映画でもあるローランド・ウェスト監督のミステリー映画 The Bat Whispers(30)だが、もっと古くからあるのかもしれない。なお、事例の探索においては、南波克行・西田博至両氏にご協力をいただいた。

(*2)この映画の原題はAnatomie d’une chute、英語題名はAnatomy of a Fall。『或る殺人』という題名で日本公開されたオットー・プレミンジャーの法廷映画、Anatomy of a Murder(59)にちなんだものだと思われる。もっとも、厳密にいえば『或る殺人』のフランス語題名はAutopsie d’un meurtreなので、なぜフランス語の原題がAutopsie d’une chuteではないのかという疑問も出そうだが、プレミンジャーのこの作品は圧倒的に英語題名のほうで世界的に知られているから、フランス語の原題もそちらにならったのかなと思う。あくまで想像ですが。ちなみにautopsieは英語だとautopsyで、「検死解剖」の意。

(*3) https://www.latimes.com/entertainment-arts/movies/story/2023-10-13/anatomy-of-a-fall-review-palme-dor-winner-sandra-huller-justine-triet

(*4)映画が始まって50分ほど経ったところで、「1年後」というテロップとともに、赤いセーター姿でピアノを弾くダニエルが映る。このとき審理はすでに終わっており、彼は判決の報告が届くのを待っているのだ。プロットがそのような構造になっていることは別に秘密でも何でもなく、途中幾度か暗示されるのだが、誰の目にもわかるようはっきりと明かされるのは終盤になってのことである。

文:篠儀直子

翻訳者、映画批評。翻訳書は『フレッド・アステア自伝』『エドワード・ヤン』(以上青土社)、『BOND ON BOND』(スペースシャワーネットワーク)、『ウェス・アンダーソンの世界 ファンタスティック Mr.FOX』『ウェス・アンダーソンの世界 グランド・ブダペスト・ホテル』(以上DU BOOKS)、『SF映画のタイポグラフィとデザイン』(フィルムアート社)等。

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『落下の解剖学』

2024年2/23(金・祝)TOHOシネマズ シャンテ他全国順次ロードショー

配給:ギャガ

©2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma

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