松村北斗×上白石萌音のW主演で話題『夜明けのすべて』 原作小説で描かれた尊い関係性

The darkest hour is just before the dawn (夜明けの直前がいちばん暗い)。映画『夜明けのすべて』でも引用された、イギリスの諺である。出口の見えない暗闇をかきわけるようにしてもがき進んでいく苦しさは、きっとどんな国に生まれ、どんな言葉を話していても、共通しているのだろう。いちばん苦しい今は夜明けの前兆なのだと信じなければ、やっていけない人たちのために、そのことわざはある。この映画もまた、そういう人たちのためにあるのだと思う。

原作は瀬尾まいこの小説で、PMS(月経前症候群)とパニック障害という制御できない病に苦しむ人たちの交流を描いた物語だ。PMSとパニック障害は全然ちがうものじゃない? パニック障害のほうが断然つらいでしょう。と思った人には本書のセリフを捧げたい。「そっか。病気にもランクがあったんだね。PMSはまだまだってことかな」。――映画で、上白石萌音が演じた藤沢さんという女性は、あははと笑いだしそうな軽い空気で言う。そうやって人は、理解されない痛みをひとりで抱え込んでしまうのだな、ということが如実にわかる場面でもあった。

藤沢さんは生理前になると、些細なことにも激しい怒りがこみあげ、歯止めのきかずまわりに当たり散らしてしまう。たとえばしょっちゅう炭酸飲料を飲む同僚の山添くんが、ペットボトルの蓋をあけるときのプシュッという音。なんてことのない音である。でも藤沢さんはキレた。「炭酸ばっか飲んでないで仕事すればいいのに」と食ってかかり、反応が悪いとますます怒る。こういうことが毎月起きるのだ。しかも周期は予測しづらく、なるときには予感もない。そのせいで、新卒で入社した会社は二か月で退職するはめになった。

できることはなんでもやっている。病院には通うのはもちろん、漢方やサプリ、太極拳にヨガ、ピラティス、鍼も整体に、オーガニックな食事。あらゆることを試して、最終手段で薬を飲んだら、強烈な眠気の副作用で勤務中に爆睡した。突然キレるし、会議の準備をしながら寝る新人。そんなレッテルを貼られて働き続けられるわけがなかった。それでも「PMSはパニック障害より軽い」といえるだろうか。

言ったのは、山添くんである。彼もまた、唐突にパニック障害を発症し、会社を辞めざるを得なくなった人だ。二人はともに、栗田金属という会社に拾われて、理解のある職場でなんとか働いている。どちらかといえば反りのあわない二人だったけれど、あるとき互いの症状を知り、手を差し伸べあうようになるのである。

映画で、栗田金属は栗田科学という子ども向けの製品を販売する会社に変わっていた。商品を使って簡易のプラネタリウムを設置し、お客さんを招くイベントを催すのだが、解説原稿を一緒に制作することで、藤沢さんと山添くんの距離はより縮まっていく。でもそれは、あくまで同僚として。努力ではどうにもならない苦しみを抱える者同士として、だ。自分が大丈夫なとき、相手が大丈夫じゃなさそうなとき、できることを手助けする。その積み重ねで生まれる信頼関係が、とても愛おしかった。その手助けは本当にささいなことで、病を根本から治すことは当然できないんだけれど、一人じゃない、と感じられることはきっと生きる上でなにより大事なのだろうと思う。

原作で描かれる、恋でも友情でもない二人の関係性は、とてもコミカルに尊いものとして描かれていたが、映画では二人をとりまく人たちもみな、二人を見守り支えているのだということに気づかされる。たとえば、光石研演じる栗田科学の社長が、藤沢さんと山添くんが話しているのをさりげなく聞いているシーンがとてもよかった。おや、という表情で顔をあげて、少し聞いたらまた目を伏せて、自分の仕事に戻る。でもきっと、意識はほんの少し、二人に傾けたまま。たぶんほかの社員に対しても同じように心配りをしているのだろう。社長以外の人たちもみんな、さりげなく、言葉にはしないで、そっと互いを見守りあっている。なんて理想的な職場だろう、と羨ましくなるけれど、きっと気づいていないだけで、現実でも多くの人がそんなふうに他者を思いやっているんだろうと思う。

二人以外にも、原作ではさまざまな人たちが見えない痛みを抱えている姿が描かれる。弟を亡くした社長。姉を亡くした山添くんの元上司・辻本さん。足を悪くして施設に通う藤沢さんのお母さん。それぞれ理由は、大きくは語られない。それは、その人がつらくてしんどいことに、理由なんていらないからなんじゃないかと思う。痛みは、誰かと比較するようなものじゃない。自分にとって大したことがないように思えても、その人が抜け出せない暗闇にとらわれているなら、理由なんてどうでもいいのだから。

小説は、言葉を尽くすことでしか生み出せない。けれど言葉を尽くすことがすべてではないのだと、映画を観て痛感した。監督の三宅唱は、言葉ではなく映像と光の色で描写する。セリフや音は少なく、わかりやすい説明などほとんどないけれど、その描写から確かに伝わってくるものがあって、胸が詰まってしまうのだ。瀬尾まいこの小説ではいつも、人に対する信頼を感じるけれど、三宅監督の映画からも、受け手への信頼を感じる。よけいなことを言わなくても、ちゃんと、伝わる。私たちは「感じる」ことができる。想像して、他者を思いやることができるのだと。

言葉でしか伝えられないもの。映像だからこそ伝わるもの。小説と映画、それぞれの表現で描かれる『夜明けのすべて』を、一人でも多くの人に味わってほしいと思う。

文=立花もも

© 株式会社blueprint