ストッパー転向で2年連続セーブ王&MVPに輝いた中日最強の助っ人投手とは!?【プロ野球助っ人外国人列伝】

助っ人外国人列伝/中日ドラゴンズ編

日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ選手を紹介する。

ストッパー転向で中日最強の助っ人投手に!郭源治

【投手第1位】郭源治

〈NPB通算データベース〉
・勝利 106勝
・敗戦 106敗
・セーブ 116
・防御率 3.22

台湾から単身で来日した若き助っ人

他球団に比べると優良助っ人外国人が多く、さらにはチームを牽引するような投手が多く活躍した中日。そのなか投手ナンバー1といえば、NPBで6人しか達成していない100勝、100セーブを成し遂げた郭源治だろう。

1956年、台湾の少数民族「アミ族」の一家で生まれた郭。戦前、台湾は日本の統治下だったこともあり、名前は「源治」と付けられた。

両親が農業を営む7人兄弟だったため、一家は竹で編まれた簡素な家で暮らしていたが、郭は草を巻いた手製のボールで野球に励み、小学生のときに台湾ナショナルチームに選抜される。エースでクリーンアップを担った郭は、リトルリーグ世界大会にも出場して、強豪国を破って世界一になった。

その輝かしい成績から蒋介石の妻・宋美齢が支援の手を差しのべ、輔仁大学に進学。野球に専念することができた郭は投手に専念してさらに成長し、卒業後2年の兵役を経て中日からスカウトされる。同時にロッテからも声をかけられていたが、以前からスポンサードを受けていた中日に入団することを決めたのだ。

ただ、台湾は日本に近い同じアジアでも言語や食文化は異なる。当時、台湾の助っ人外国人は珍しかったため通訳はおらず、単身で来日した郭の苦労は絶えなかった。それでもハングリー精神でそれを乗り越え、2年ほどで日本語がペラペラになるほど上達する。

ストッパー転向で中日最強の助っ人投手に

身長178センチ、体重78キロの郭は決して大柄ではない。それでも日本で一旗揚げるべく、1981年7月のNPBデビュー戦では全身を使って投げ込む速球を連発して躍動。1年目はこのときの1勝に終わったが、日本でやっていける自信を掴んだという。

2年目の1982年は開幕からローテーションを守り、オールスターにも選出。シーズンの最後まで広島の津田恒美と新人王を争うような力投を続け、チームのリーグ優勝に貢献している。

以降も1986年まで2桁勝利を記録し、1985年は先発のほかに守護神としても登板。主力投手の小松辰雄とともに2大エースとして活躍した。一方で勝負どころでのもろさもあり、負けも多いため「貯金ができない先発」と指摘されることもあった。

そんな郭は1987年から監督に就任した星野仙一との出会いが転機となる。この年はロッテから落合博満がトレードで加入し、代わりに守護神の牛島和彦が移籍。星野は郭の熱い闘志と負けん気の強さが抑え向きと見抜き、守護神に指名する。

星野から絶対的な信頼を寄せられた郭は、小さな体からボールがホップするような速球を武器に、気合満点のピッチングで躍動する。以前よりも闘志をむき出しにした郭は、三振を奪うとガッツポーズやマウンド上のジャンプで身を奮い立たせ、火消し役として4勝、26セーブ、防御率1.56の高成績でセーブ王を獲得した。

そして、輝きを増した郭は1988年の開幕から安定感抜群の全力投球を披露し、6月は防御率0.00で10連続セーブに成功する。最終的に37セーブで2年連続セーブ王&MVPに輝いている。ペナント優勝時は胴上げ投手となり、星野監督との抱擁は名場面として記憶に残る。

引退後は日・台両国の野球を支援

あまりの全力投球によって利き腕を痛めてしまった郭は、1991年から先発に再転向する。6月は2完封を含む5勝を挙げて月間MVPに輝いて年間13勝とチームを支えた。

1994年には史上5人目(助っ人外国人初)の100勝、100セーブを達成し、気がつくと台湾から渡ってきた若者は球界を代表する大投手となっていた。また、持ち前の明るさと整ったルックスでファン人気も高く、元CAでミス日本にも選ばれた妻と結婚し、1989年に帰化している。

こうして1996年まで16年にわたって中日を支えてきた郭は、発展途上であった母国・台湾プロ野球に貢献するために退団を決意する。ナゴヤドームお披露目となった1997年3月、郭は打者一人限定で中日と契約。幼いころ郭に憧れていたイチローと対戦し、センターフライに打ち取る。源治コールが響くなか、日本での引退試合を終えた。

台湾では統一ライオンズと和信ホエールズでプレーし、1998年には42歳で14勝を記録。一選手としてだけではなく、台湾プロ野球全体の底上げにも寄与する活動を続け、台湾球界の底上げに一役買っている。

翌年は日本国籍ながらシドニーオリンピックの台湾代表として参加し、この年で現役生活を終えた。

引退後は日・台で指導者として活動する傍ら、両国の架け橋となるボランティアにも積極的に参加。経済的な事情で野球ができない台湾の子どもたちを支援する「中日アカデミー郭源治奨学金」を設立するなど、野球に恩返しする活動を続けている。

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