京都市中京区の片山澄江さん(82)は昨年12月、買い物客でにぎわう京都三条会商店街で心温まる出来事にめぐまれた。
年齢を重ねた片山さんの腰は「くの字」に折れ曲がり、近所に出かけるだけで一苦労。この日は手押し車のハンドルに食料品がたっぷり詰まったビニール袋を2つもぶら下げていたから、余計に大変だった。
「ちょっと」。片山さんの後ろから中学生か、高校生ぐらいの男の子が近寄ってきた。
片山さんは突然のことにびっくりしたが、男の子の手元を見てハッとした。男の子は自分がうっかり落としたかばんを拾い、追いかけてきてくれたのだった。
片山さんは感謝と安堵の気持ちで胸がいっぱいになった。
年季の入った革製のかばんはすっかり色落ちし、見るからにくたびれた感じもする。
それは、5年前に他界した息子がプレゼントしてくれた、世界に一つだけの宝物だった。
片山さんの長男智彦さんは1967年、京都府中部に位置する京丹波町で産声を上げた。幼少期から好奇心旺盛な性格で、近所の子どもたちと野山を駆け回って過ごした。
すくすくと成長を続ける息子の異変に両親が気付いたのは9歳の時だった。外出先で階段を歩きづらそうにする息子の姿に違和感を覚え、京都府立医科大学付属病院を受診。検査の結果、筋ジストロフィーを患っていることが分かった。
筋ジストロフィーは全身の筋肉が衰える進行性の難病。智彦さんも年を追うごとに運動機能が低下し、日常生活に支障が生じるようになった。
それでも智彦さんは持ち前の明るさを失わず、地元の須知小学校、蒲生野中学校に通学。須知高校を卒業後は幼いころから興味があった憲法を学ぶため、大阪大学法学部に進学した。
大学進学を機に実家を離れ、車いす生活をするようになった智彦さん。以来、母親の片山さんも住み慣れた京都を離れ、智彦さんに付きっ切りで送迎や食事、風呂の世話をした。
二人三脚の生活は智彦さんが大阪大学大学院を修了し、福井県立大学の准教授や教授として学生たちに憲法を教えるようになった後も続いた。
「大学への送迎だけでなく、全国各地で開催される学会にも付き添いました。貴重な日々の積み重ねをさせてもらい、私自身の世界も大きく広がりました」
一方、身長180センチ近い智彦さんの生活介助は体力勝負だった。路上で息子をおぶってバランスを崩し、激しく転倒したこともあった。くちびるに残る大きな傷跡はその時にできたもの。母親の献身に感謝の思いを込め、智彦さんがかばんをプレゼントしたのは約20年前のことだ。
「母の日だったか、わたしの誕生日だったか、はっきりとは思い出せませんけど、そういう気持ちでいてくれるんやと思うと本当にうれしかったです」
母子2人の暮らしは2019年3月に終幕を迎えた。智彦さんは前年夏に体調を崩し、入退院を繰り返すようになっていた。再び教壇に立てるようにと療養に努めたが、病の進行を止めることはかなわず、帰らぬ人となった。51歳だった。
片山さんは長く寄り添って生きてきた息子を失い、心にぽっかりと穴があいた。さらに3年後、ともに息子を支えた夫が他界。これまで1人で過ごすことのなかった片山さんは、孤独に押しつぶされそうになった。
かばんを落としたのは、そんなタイミングだった。
師走の商店街で、片山さんはかばんを拾ってくれた男の子に「ありがとう」と声をかけた。
それから何歩か前に進んで振り返り、反対方向に向かう男の子にもう一度、「ありがとう」と声をかけた。
片山さんは、照れくさそうに頭を下げる男の子に亡くなった息子の姿を重ねた。
「学校、楽しく通えてますか」「将来はどんな人になりたいの」「応援してるし、頑張ってや」
本当ならこんな風に色んな話をしたかった。だけど、思いもよらない出来事にびっくりして「ありがとう」の言葉しか出てこなかった。
帰宅後、商店街での一コマを文章にした。それを京都新聞の読者投稿欄「窓」に送ったのは、紙面を通じ、この気持ちを男の子に伝えられるかもしれない、と思ったからだ。
私が大事にしているこの草色のかばんは、息子に買ってもらったものです。私は男の子の温かい心を忘れません。あなたの心とかばんを大切にして生きていきます。
心を込めてつづられたメッセージは、あの日の少年に届いただろうか。