【ネタバレあり】『ボーはおそれている』徹底考察 アリ・アスターが描く“究極の恐怖”とは

不穏さが濃厚に漂う独創的な世界に観客を誘い、衝撃的な体験へと導く恐怖映画を提供することで、多くの“不安に陥りたい”ファンを生み出し続けている、アリ・アスター。『ヘレディタリー/継承』(2018年)、『ミッドサマー』(2019年)と、まだ長編映画の監督を務めた経験は長くないものの、その天才的な発想力とセンスで、すでに最も期待される映画監督の一人となっている。

そんな快進撃を続ける“アリ・アスター伝説”は、より加速を見せ、3作目『ボーはおそれている』において、さまざまな意味で“異常事態”へと突入したのかもしれない。次元の異なる変化にまで至ったさらなる衝撃作といえる『ボーはおそれている』は、いったいどのような作品なのか。そして、この映画で描かれてしまった“究極の恐怖”、“極点に達した「嫌さ」”とは何なのかを、ここで考えていきたい。

※本記事は物語の展開の核心部分に触れています

映画が胎児の視点からの轟音の出産シーンによってスタートし、われわれ観客は、とんでもない世界に放り出される。最初の舞台となるのは、信じ難いほどに治安が悪いアメリカの街だ。主人公ボー・ワッサーマン(ホアキン・フェニックス)は、そのような荒れに荒れた地域の集合住宅に住んでいて、いつも不安な思いを抱えて生活している。そんなボーは、父の命日に実家へと里帰りするため、旅支度をして空港へ向かおうとする。しかし、起こってほしくない理不尽なトラブルが連続し、部屋からすら出られない状況となってしまう。

この展開は、すでにアスター監督が短編作品『BEAU』(2011年)にて描いている物語の流れだ。セラピストに相談して薬をもらっているなど、医療行為を受けているところから、ここで表現される街の異様なほどのカオティックな状況というのは、もしかしたらボーの不安が生み出す妄想なのかもしれないという可能性を、本作はまず提示する。

心配性の主人公が日々の生活にすら不安をおぼえ、あまつさえ嫌な予感が的中してしまうという、作り手自身の悪夢的な想像が、奇妙な幻想世界の創造やアーティスティックな表現に昇華される……そんな映画作品に、デヴィッド・リンチ監督の初期短編や『イレイザーヘッド』(1977年)がある。本作はまさしく、そのような個人的かつ感覚的な迷路へと観客を引きずり込んでいくのだ。

こうしてトラブルによって帰れなくなったボーは、待ちわびている母親のため、やはり実家に行かねばならないという焦燥感に駆られていく。しかし、そのすぐ後、その母親が実家でシャンデリアの落下事故によって頭部が潰れ死亡したという、信じ難い報せを聞くことになるのだ。その後、ボーは自宅の浴槽につかり、潜在的に母親の胎内へと回帰する願望を見せる。

あまりにも理不尽な展開や、不謹慎に感じられるユーモアの数々から、観客はいま観ているものが何なのか困惑し始めるはずである。これまでの2作では、前衛的な要素がありつつも、一応はホラー映画というジャンルに当てはまる部分があることで、観客はその柱につかまってさえいればよかった。その構図のなかでは、むしろ常軌を逸していればいるほど楽しめたはずであり、そこが評価されてきたのがアリ・アスター作品なのだ。しかし今回は、つかまるような柱がなかなか見つからないのである。あったと思っても、それはすぐに倒れてしまう。

思えば、心霊現象や怪しげなカルト宗教など、万人がスリルを味わえる、分かりやすい恐怖の対象も、これまでは用意されていた。しかし今回は、主人公がなぜ理不尽な目に遭い続けるのか、その理由が分かりにくいばかりか、この作品がもはやホラーというジャンルに収まるのか、コメディ作品なのかすら、理解しづらいのである。

ストーリー上では、その後、ボーがなぜか奇妙な家族に引き止められ、養子になるように促されるという、謎としか思えない状況にも陥っていく。そんな折、母親の弁護士を名乗る人物からの電話で、「葬儀のために君の到着を我々は待っているが、母君の遺体をこのままにしておけばおくほど、死者への冒涜となるぞ」という、嫌なプレッシャーをかけられもする。ボーはその時点で、交通事故で乗用車にはねられたことによりボロボロの身体になっているのだが、母親の尊厳のために早く帰らねばと、また焦らねばならなくなるのだった。

そんな状況下においてボーは突然、理不尽なかたちで殺人の罪を着せられ、逃亡するはめに陥り、森に逃げ延びたり殺戮者の襲撃に遭うなど、めちゃくちゃな事態を経験し続ける。苦心惨憺してたどり着いた実家でも、やはり理不尽としかいえない悲劇に見舞われるが、そこで彼はついに、心の奥にしまいこんでいる“不安”の源泉へと接近することになるのだ。

このように、ホアキン・フェニックス演じるキャラクターが、とにかく異常な状況に翻弄され続けて、能動的な行動をほとんど取れないというのが、本作の大きな特徴である。アリ・アスター監督はタイム誌の取材で、「“キャラクターが何もできず、どのボタンも機能しない”ビデオゲームのような映画を撮りたかった」と語っている。(※)

確かに、アスター監督の過去作でも、主人公たちは異常な状況に飲み込まれ、自発的なコントロールを失っていくところがあった。しかし今回の主人公の“何もできていない感”は格別である。娯楽作において、厳しい状況に対して主人公が効果的な動きを見せなければ、観客にストレスを感じさせてしまい、感情移入を阻害させる要因となってしまう。その点において、本作では加害者に対して許しを乞うたり逃げるのが精一杯で、小さな達成すら得られることはない。本作はアメリカ本国で、製作費に対して興行的な苦戦を余儀なくされたが、それも仕方ないと思えるほどに、娯楽の基本から逸脱してしまったように感じられるのである。

それでは、いったいアスター監督は、こんなに異様なアプローチをしてまで、何を描こうとしたのか。それは、本作の中盤に登場する「劇中劇」が大きなヒントになっていると思われる。ちなみにそのシーンは、アスター監督が絶賛したストップモーション・アニメーション作品『オオカミの家』(2018年)をきっかけに、ともに短編『骨』(2021年)を作りあげた、クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャが担当したアニメーションパートとなっている。

ボーは状況に流されるまま、その舞台劇のオーディエンスとなるのだが、同時に出演者となることも要請されている。演者と観客の立場を曖昧にし、一体感を醸し出すことが、この劇団の意図なのだという。そこでボーは、登場人物として数奇な人生を体験していく。その役柄の“性行為をすれば死に至る”という遺伝体質を引き継いでいるといった設定は、ボー本人のものでもある。つまり、ボーが演じる役柄とボー本人もまた、境界が曖昧になっているのだ。

そんな奇妙な構図が醸成するのは、“自分の人生が本当に自分の意志によって切り拓くことができているのか”という不安だ。自分の人生が一つの寓話に変換されるように、何者かの設定したストーリーに、自分は操られているのではないのかという不穏な気づきが、ここで提示されるのである。

ボーの人生を操る者……それは紛れもなく彼の母親であったことが、本作の物語が進むごとに明らかになっていく。ボーは少年時代から、一挙手一投足に至るまで、母親の強い影響下にあり、彼女が投げかけた言葉や考え方に支配されている。だからこそボーは、積極的に何かに取り組み、自分の意志で困難を打開するといった能力に欠けているのである。

そしておそらく彼女は、彼女自身のネガティブな観念を、息子のボーが物心がついたときから、嘘を絡めるかたちで刷り込んでいたのだと思われる。そうやってかたちづくられた恐怖の感情の真相が、劇中の核心部分で表れるといった展開が、あのクライマックスのグロテスクな姿に表れているといえる。自由意志を奪い、支配による“精神的去勢”を施した結果が、“ボー”であったということなのだ。

そして、これまでボーの周りにいた多くの人々が、じつは母親がCEOを務めていた企業の従業員だったことも判明する。それは、実家に飾られていた従業員たちの写真によって母の顔が象られているといった趣味の悪いアートによって示され、それはボーの生きる世界そのものが母親によってプロデュースされていたという象徴ともなっている。しかし問題は、そのような現実的には起こり得ない展開を描くことで、本作がいったい何を表現したいのかということである。

考えてみれば、世の中のほぼ全ての人間は、誰かしら他の人間の影響を受けて育ってきている。多くの場合、それは子どもを育てる者となるだろう。そういった成長過程での学習や影響は、もちろん成長にとって必要なものだが、同時にそうやって固められた人格の核の部分が、子どもの今後の人生を決めてしまうことにもなりかねない。

本作の物語が、ボーの混乱した精神世界だとすれば、母親から高圧的に人格を矯正された彼が、人生で経験する全て、世界そのものが母親の影響下にあるという妄想のなかにあったとしても道理であろう。アルフレッド・ヒッチコック監督の、ある代表作のラストシーンを想起させるように、ボーが生きている限り、母親の人格もまた彼のなかで生き続けていると考えられるのである。そして、それはボーの自立心や彼自身の選択を罰し続ける。それが、終盤の裁判のシーンに表れているのではないか。

気が弱かったり、自信がなくなったり、自己肯定感を持てない性格になってしまう原因に、成長家庭での親との関係に問題がある場合があるということは、複数の研究や、近年MRIを使った脳機能における先端的な実験によっても明らかになってきている。子どもが成長して中年以降になっても、そういった経験は影響を及ぼし続けることになる。だからこそ子育てでは、暴力を振るわないことはもちろん、子どもの人格を否定するような言動をしないように気をつけなければならないと、現在では考えられるようになっている。

この構図は、程度問題はあるにせよ、誰にでも適用できる話である。自分の人生が、自分以外の人格によって支配されている……“人生が自分のものではないのではないか”という不安や気づきは、ある意味で“死の恐怖”を超えた、“究極の恐怖”に接続されているのかもしれない。それがどんな観客にとっても否定しきれないという点で、本作は“極点に達した「嫌さ」”を提供していると思えるのである。

しかし、あのアリ・アスター監督が、だからといって“子育ての倫理”を説いているというのは、納得しかねるところがあるのも正直なところだ。この作品が暗示した構図は、もっと違う分野にも照射されていると見るべきなのではないかと感じられるのである。そのように考えたときに思い至るのは、アスター監督がさまざまな映画作品に影響を受けていることを公言しているという事実である。アスター監督だけでなく、多感な時期に観た映画をはじめ、さまざまな創作物やアート作品などが、その作家をかたちづくることもまた、よく知られている。

人生も半ばを過ぎたと考えられるときに、自分の青春時代に繰り返し聴いていた音楽や、観ていた映像作品、または小説や漫画などをあらためて鑑賞してみると、現在までの自分の趣向や拠りどころにしているものが、驚くほどこの“原点”を核としていることに気づくことがある。そうしてみると、果たして“自分”というものが存在しているのだろうかという思いに駆られることがある。自分の肉体や精神は単なる“器”に過ぎず、何らかの意思を代理しているだけなのではないか。

このような人間の不安は、ギリシアの哲学者プラトンが提唱した「イデア論」に繋がるところがあると考えられる。これは簡単にいえば、永遠の“知”であり“美”という絶対的な存在が、人間の外部に存在するという哲学である。人類が生み出す知識や芸術は、その絶対的な存在の模倣に過ぎないというのだ。そうとらえるならば全てのアーティストたちは、潜在的にそんな絶対性の再現を目指し、少しでも近づこうとしながら、不完全なものを作り続けているということになるだろう。

こういった芸術論を、本作『ボーはおそれている』に適用するならば、ボーはアリ・アスターをはじめ全ての作家を代表する存在であり、母親というかたちに象徴された「イデア」を必要としながら、根源的な意味で支配されているという構造を描いたことになる。それは、アスター監督自身の物語でもあるはずである。

常に“不安”をテーマにしてきたアリ・アスター監督は、ここにきてジャンルを飛び越えて娯楽性を一部犠牲にすることで、新たなアプローチに挑戦した。そして、商業的な成功などとは別の部分で、これまでの自分の足取りや作家性を、大きな芸術史のスケールを暗示させながら、まさに“不安”によって、つかみ得ることに成功した、といえるのではないだろうか。そして、そんな達成もまた“本当の自分自身ではないのかもしれない”という不安のなかにまた沈んでいくように見える結末の光景が、彼らしいのである。

参照
※ https://time.com/6272355/beau-is-afraid-explained/

(文=小野寺系)

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