「赤線や遊郭跡に引き寄せられた」色街写真家の波乱万丈な半生

元吉原のソープ嬢・紅子さんが、過去の体験記と色街の歴史について紹介するYouTubeチャンネル「紅子の色街探訪記」が話題を集めている。このチャンネルで色街写真家として遊郭の歴史を語り、それらをまとめた写真集『紅子の色街探訪記』は、クラウドファンディングで450万円を超える資金調達を達成した。

そんな紅子さんに、ニュースクランチ編集部がインタビューを実施。彼女が色街写真家として活動を始めるまでの経歴、現在のやりがいや家族の反応などについて聞いた。

▲紅子【WANI BOOKS-“NewsCrunch”-Interview】

大人の男性は女性の裸が好きなんだ

――幼少期、どんな子どもだったんでしょうか?

紅子:ずっと孤独で、言葉を発せない子どもでした。商店街のなかのバラックのようなさびれた家に、両親と私を含めた3人姉妹で暮らしていましたが、経済的に余裕もなくて学校の勉強も苦手でした。例えば、算数の足し算引き算の概念が理解できなくて、勉強についていけないからますます無口になって、気味悪がられて孤立していくことの繰り返しでした。

――活動旺盛な現在の紅子さんからは想像もつきませんね。

紅子:勉強ができる・できないとか、友達をつくる・つくらないとかの以前に、自分の感情をどう口にすればいいのかわからなかったんです。見聞きしている情報を理解するのも苦手だったんでしょうね。そんななかで数少ない楽しみがアニメでした。テレビっ子でしたね。

――当時、好きだった作品は?

紅子:『キャンディ・キャンディ』『銀河鉄道999』『世界名作劇場』などを覚えています。灰色のような子ども時代を送ってきたせいか、アニメからもらえる非日常感が好きだったのでしょうね。

それから、ゴールデンタイムのテレビでも大人の裸が見られる時代でしたし、ポルノ雑誌が平気で道端に捨てられていました。それらも妙に色づいて見えて、漠然とした憧れがありました。

――それが性風俗との最初の接点だったんですね。

紅子:大人の男性は女性の裸が好きなんだ、ということは子ども心にも理解できました。そういう世界に行けば、私も他者に受け入れてもらえるのかもしれない、という渇望めいたものを感じていたのかもしれません。

とはいえ、裸になりたいとか、性的に倒錯している自覚はなくて、風俗の仕事を始めたのはお金のためでした。高校を中退して美術の専門学校に入りましたが、学費や画材がとても高かったのです。

――専門学校では、どんなジャンルを学んでいたんでしょうか?

紅子:油絵を描いていました。でも、飲食店などのアルバイトでは学費を工面することは難しく、授業以外はバイト漬けの毎日でした。同級生は裕福な家庭で育った子が多く、働いている私をあまり良い目では見てない子もいました。

飲食店で天ぷらを揚げたり皿洗いなどをしていましたが、お金が足りなくて家の郵便受けに入っていたフロアレディ募集の広告を見て、どんな仕事か知らずに西川口まで行きました。そこは当時、流行っていたピンサロでした。それから、たどり着いた場所が風俗店であり吉原の街でした。

――幼少期にコミュニケーションがうまくいかず、また金銭的な事情で風俗業で働らかざるを得なかったというのは、現代の若い女性にも通じる事情のようです。

紅子:そうですね……今でしたらもっと教育面でもサポートを受けられたかもしれませんが、当時は「変わった子」で片付けられてしまって、自己責任で生きていくしかない環境でしたね。

“ここでも受け入れてもらえないんだ”という挫折感

――夜の業界で働いてみて、実際はいかがでしたか?

紅子:大人になって裸になれば人に受け入れてもらえる、子どもの頃から漠然とそう信じていましたが、決してそのようなことはありませんでした。ピンサロでは店長もお客さんも厳しかったです。でも、きっと「裸になる世界」にもっと何かあるのでは? という思いと、他にお金を稼ぐ手段がわからずに風俗店を転々とするしかありませんでした。

このような仕事から男の人への興味が強いのかと思う方もいますが、特別な感情を持つことはありません。気持ちとしては普通の接客業の方々と同じとさえ思っています。風俗を経験したからといって、異性への接し方が変わるわけではありません。

――紅子さんが経験した当時と、現代の風俗業界の違いを感じることはありますか?

紅子:大きく変わったことはSNSではないでしょうか。女の子たちはSNSで自ら発信し集客しています。自分でカメラマンを探し、セルフプロデュースする。当時は、お店のボーイさんがインスタントカメラで撮影するだけだったので、写りが悪かったらそれでおしまいです。自ら発信できる今の子たちに羨ましさを感じますね。

逆に、ほとんどなくなってしまったのが、接待や飲み会の二次会で風俗に来るというサラリーマンの姿です。現代ならセクハラですよね(笑)。でも、おかげで花街に活気があったのも確か。今のお客さんは皆、車での送迎が当たり前になったので、花街の周縁でやっていけていた飲み屋さんもなくなっています。

――風俗業界を辞められてから、カメラや動画の活動を始めるまでには、どんな心境の変化があったのでしょうか。

紅子:結婚を機に吉原を32歳で辞めたあとは、高円寺に当時できた女性向けアダルトグッズショップで働き始めました。ストリップを引退した友達がつくったお店です。初めは臨時のアルバイトでしたが、ほこりがついたバイブの汚れなど、丁寧に拭いて掃除をしていたら、仕事ぶりを認めてもらいスタッフとして働かせてもらうことができました。

そのお店では妊娠8か月まで、3年ほど働きました。子どもは無事に産まれましたが、1歳になった頃、旦那さんに他に結婚したい人がいるとわかり離婚することになりました。これまでの人生で、風俗に関わる仕事しかしていない自分にまともな職などありません。私は寝る時間を惜しんで、漢字の勉強から始め、なんとか事務のパート仕事に就くことができました。

色街写真家としての活動のきっかけ

――ここまで波乱万丈な人生を歩んでこられましたが、その後は?

紅子:離婚後に双子の妹のすすめでキリスト教の教会へ通いはじめました。妹は19歳の頃に、統一教会に入信してしまって……、脱会を助けてくれたのがキリスト教の牧師さんでした。

教会へ行くと、みんなが子どもと遊んでくれてとても良い環境で育てることができましたが、教会でもシングルマザーということから差別や偏見もあり、10年ほど通いましたが今は離れてしましました。

――お子さんがが成長したことで、ひとりの時間がができてきたんですね。

紅子:最初は気になる場所をスマホで撮影していました。スナックや路地裏や風俗街などを日々撮り歩き、それをインスタグラムに1日一回投稿することを決めたんです。投稿するときに、その場所の歴史を調べていたら、そこがかつて赤線や遊郭の跡地であることがわかってきました。

――色街で働いていたときは、そういった歴史に興味はあったんでしょうか?

紅子:そんな余裕はなかったし、今のようにネットもなかったので歴史を知ることは残念ながらありませんでした。40代後半でこのまま人生が終わるのかな……そんな思いから何か生きた証を残したいという思いが湧いてきたんです。本格的に記録をするために、48歳で使い方もよくわからない一眼レフカメラを買い、撮影する日々が始まりました。

――YouTubeチャンネル「紅子の色街探訪記」を始めたキッカケは?

紅子:映画監督の出馬康成さんとの出会いがきっかけでした。私のインスタグラムなどの投稿を見て「写真が良いね」と言ってもらえたんです。「写真を紹介するYouTubeを始めたら、きっと見てくれる人がいる」って勧めてくれました。ちょうどその頃、役に立つかもわからない動画編集やデザインなどを独学で勉強していたんです。でも、まさか自分がYouTubeを始めるとは夢にも思っていませんでしたね。

――経歴を公表して、顔出しもすることにに迷いはなかったのでしょうか?

紅子:YouTubeはすべてが手探りでした。自分か被写体になることにも違和感を感じながら試行錯誤で始めました。遊郭跡地の撮影についてはできる限り、地元の方のお話を伺うようにしています。ですが、風俗街での撮影が多いことから難しいことも多々あります。

――地道な活動が実を結んで、51歳で初めての写真集『紅子の色街探訪記』を昨年12月に出版されました。すごく世界観がしっかりした一冊ですね。

紅子:性風俗という閉ざされた歴史に「文化」という、ささやかな光を灯し後世に残し伝えたい。このような思いから全国の色街を撮り歩いています。「負の遺産」とされる遊郭の跡地を、どのように伝えるかいつも考えています。

――地方都市には、かつて栄えた色街が残っていますよね。

紅子:行きたい場所はまだまだあります。今度は高知の玉水を撮影したいですね。カフェー建築はタイルや色ガラスなど大変美しく、女性からも人気がありますが、私はその土地で生きた人の営みを写真に刻み込みたいと思っています。

▲紅子さんが撮影した京都府八幡市橋本「旅館 橋本の香(旧三枡楼)」

実体験しているからこそ伝えたい色街文化

――経歴から誹謗中傷されたり、ご家族との関係にヒビが入ることはなかったのでしょうか?

紅子:YouTubeを始めたばかりの頃、コメントの半分くらいは否定的なものでしたね。当時は風俗経験を赤裸々に話していたんです。だから「そんな経歴公表して、これからどうやって生きていくの?」と言う感じのコメントが多かったです。

シングルマザーであることも公表したら、同性からも「子どもがかわいそう」みたいなコメントが来ました。それでも、批判以上に好意的なコメントをもらえるようになってきました。「あなたは表現として伝えているんですね」といったコメントや、自分以上に自分のことを理解してくれる方がたくさんいて、そのことが大きな励みとなっています。

――お子さんは、紅子さんの活動をご存じなんでしょうか?

紅子:私から直接言ったことはありません。でも、気づいても言わない性格の息子なので、家にも色街に関わる本がありますから、いずれは知るときが来るだろうし、もう知っているかもしれません。干渉しすぎない親子関係ですが、料理研究科のリュウジさんの動画が好きで、ご飯も毎日作ってくれるんですよ。

▲文化として消えつつある色街を記録した写真集

――波乱の人生を経て、写真集も出版。アーティストとして活動をされていますが、どんな人生観を持てるようになりましたか?

紅子:性風俗という世界で生きてきたことをずっと後悔してきました。どうやって生きていいかわからず、たどり着いた場所が吉原という街です。そんな人生を後悔したまま終わらせたくない。だから今、私は風俗街を歩き、その歴史を伝えています。レンズを通して見えてきたものは儚くも美しい世界でした。

――色街文化の伝道者・理解者として、これからも活躍が続きそうですね。

紅子:ありがとうございます。今後も地道に撮影を続けていきます。

(取材:大宮 高史)


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