[食の履歴書]徳川家広さん(徳川宗家19代当主) 好き嫌い言えぬ家風 心に残る父のおじや

徳川家では、食べ物の好き嫌いを言ってはいけないというしつけがされてきました。身近な従業員である料理人に恥をかかせてはいけないからです。これは他のことでも同様でして、たとえばお風呂の湯加減を聞かれたら、熱過ぎようがぬる過ぎようが「ちょうどよい」と言わないといけません。そうでないとまきをくべている者が罰せられますから。うちに限らず、島津家でもこのようなしつけがされてきたと聞きました。

私の父は戦中、4、5歳で疎開したんです。父方の祖父は横浜正金銀行(現・三菱UFJ銀行)で奉職しておりました。当時の大企業社員には闇の配給米が回ってきたそうですが、祖父はシンガポールに赴任していたため、闇米が回らない。そのため父は疎開先で、ものすごくおなかをすかせていたそうです。

それがトラウマ(心的外傷)になり、後に豊かな時代になってからは大きな冷蔵庫を買って、たくさんの食材を入れていました。父は食料がなくなることが心配でしょうがなかったんですよ。「好き嫌いを言ってはいけない」どころか、食べ残しは決して許さないとしつけられました。

父はたまに料理をしましたが、それがそうとうなクセ球でして。みそ汁は日本酒の味がしました。「お酒を入れるとおいしくなるから」と言って。また、ものすごく熱いおじやを、当時7歳くらいの私に食えというんです。熱くて食べられずに泣いて嫌がりました。母によると、私はこう訴えたそうです。「ママ、死なないでね。毎日おじやを食べるのは嫌だから」と(笑)。

でも父の作るカレーはおいしかったし、台湾で食べた料理の再現というのも面白かったですね。豚のスペアリブとダイコンを、しょうゆ味のスープで煮込んだものでした。スープには八角と紹興酒も入っていて、ダイコンにはしっかりと中華の味が染み込んでいました。

母の料理で私が好きだったのは、鶏飯です。母方の祖母は戦後の食糧事情がよくない時代に、友達と得意な献立を紹介し合ったそうです。物資のあまりない中で、食卓を豊かにしようとレシピ交換をしたんですね。その中で出てきた鶏飯を、母が作ってくれました。鹿児島の鶏飯に少し手を加え、ご飯の上の具は7、8種類くらいあったと思います。

私は大学院を出てから、国連食糧農業機関で働き始めました。

最初はローマの本部に行ったんですが、何を食べても予想をはるかに超えるおいしさでした。母から、パスタをアルデンテにゆでるように教わっていたので、よく作りました。ソースはかなり手の込んだものを作った記憶があります。食材も豊かだったので、料理をしたい気持ちになったんですよ。市場に魚を買いに行くと、ガラスケースはなく、氷の上に魚がむき出しで並んでいました。肉も野菜もおいしいし、調味料の種類もたくさんありました。

その後ベトナムに転勤となるのですが、1990年代当時は改革開放路線になったばかりで、レストランも少ないし、サービスも悪かった。

私はそこで出会ったベトナム女性と結婚しました。日本に来てから、妻が怒り出したことがありました。「日本のお米のせいで顔が丸くなってしまった。ベトナムからお米を送ってもらう」と。それだけ日本のご飯がおいしくて、食べ過ぎてしまったということでしょう(笑)。

妻とは、毎年のようにハノイに行っています。近年のハノイ周辺の経済発展は目覚ましいのですが、食の方はというと、街が大きくなり過ぎたため近郊の農村から食材をオートバイに載せて運ぶのが難しくなり、鮮度が下がってきているようです。料理は洗練されてきましたが、以前のような野性味が感じられなくなったことは残念に思います。 (聞き手・菊地武顕)

とくがわ・いえひろ 1965年、東京都生まれ。慶応義塾大学卒業後、米国の大学院で修士号を取り、国連食糧農業機関に勤務。その後翻訳家や政治経済評論家として活動し「自分を守る経済学」など著書多数。2021年6月から公益財団法人徳川記念財団理事長。昨年1月、徳川宗家当主を継承。それを機に菓子会社・にしき堂が発売した「楓果」が全国推奨観光土産品審査会厚生労働大臣賞などを受賞した。

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