「寝ずに祈っていたら幻も見るでしょうね」 脱会信者に共通する“至高体験の欠落”

「神秘的な体験をする人」と「しない人」の違いとは?(Graphs / PIXTA)

世間から「問題がある」とされている宗教に、なぜ入信するのだろうか。

多くの人にはピンとこない話かもしれないが、“内側”にいた人たちの証言からその体験世界をのぞけば、誰もが「狂信」する可能性にドキリとするかもしれない。

本連載では、宗教2世の「当事者」であり、問題に深く関心を持つ「共事者」でもある文学研究者が、宗教1世と宗教2世へのインタビューをもとに、彼らの「狂信」の内側に迫る。

第3回目は、脱会した信者たちが口をそろえて証言した「至高体験の欠落」を紹介する。

(#4に続く)

※ この記事は、文学研究者・横道誠氏による書籍『あなたも狂信する 宗教1世と宗教2世の世界に迫る共事者研究』(太田出版)より一部抜粋・構成。

神秘的な体験はなかった

今回インタビューをしてみると、私は脱会した信者たちによる至高体験の欠落は注目にあたいすると考えた。

リネンさんは、神の顕現を感じるほどの至高体験を経験したことがない。

リネン でも「開拓奉仕」に出て、8時間の伝道を終えて帰ってきたら、体は疲れているのに「聖霊に満たされている」という感覚がありました。それで仲間たちと「エホバの祝福ね」と声をかけあってました。

リネンさんが体験していたのは、温和なフロー状態と言って良いだろう。

ジャムさんも至高体験を経たことがない。エホバに対して、教団内で言われている「父なる神」と感じることもなかった。神秘的な体験をする人は、精神疾患の傾向があるのではと考えている。夫からの家庭内暴力に耐えていたジャムさんには、男性信者が優しい姿勢でリーダーシップを取って、女性たちを守る教団の体質は、幸せなものと感じられた。たくさん祈って、じぶんでじぶんを洗脳していったと感じる。

グレーさんも、神秘的な体験があったかどうかと問われれば、ないと言うしかないと語る。祈り、歌うことは至高体験に開かれず、自己暗示をかけるためのものだった。陶酔状態になったことも、脳内麻薬のようなものを感じたこともなかった。奇跡的な神の顕現に憧れたことすらない。

ちざわりんさんは、地区大会の終わりに讃美歌を歌っていると、高揚感を覚えた。仲間同士で歓迎しあっているのだと思った。だが「変性意識状態」と呼ぶべきものは体験したことがない。ちざわりんさんの母は、実家がシャーマン系の宗教の家柄で、それに嫌気が差して、エホバの証人に入信する動機のひとつになった。ちざわりんさんもその点で、母親の心理を共有している。

神々しさを欠いた統一教会教祖

みほさんは、教祖の文鮮明に神聖な印象を受けなかった。会ったことのある信者は、みんな礼賛するものの、みほさんはそれらの声を聞いて「すごい人なんだな」と他人事のように思う程度だった。と思った。原罪を信じこまされたから、「祝福」を受けることが、つまり合同結婚式が希望だと思っていた。

はるかさんも文鮮明を神々しいとは感じなかった。

はるか 「メシア」って言われているけれど、神さまの生まれ変わりというよりも、霊能者のようなものなんだろうなって思いました。神さまと呼ぶにふさわしいオーラはなかったですね。

学生は資金力がないから、お布施の代わりとして、霊感商法に従事する。ノルマは厳しいと感じていた。神秘体験めいたものがあったという仲間がいて、「神様が導いてくださった」と言っていたが、はるかさんは冷静に観察していた。

冷静でしらふの信者たち

あきこさんにも至高体験はなかった。それで、摂理への信仰の度合いが高くないと指摘されたこともある。祈るときに神が見えた、という信者仲間はいたが、あきこさんは冷静に観察していた。

あきこ 寝ずに祈っていたら、いつかそういう幻も見るでしょうねって、突きはなして見てましたね。

横道 (笑)

ネギトロさんにも至高体験らしいものは起きなかった。題目を唱えていて、そのうちに良いことが起きると、「望みどおりになった」「願いが叶った」と見なす。それによって信仰が強化されるというシンプルな仕組みだった。創価学会の池田大作は、統一教会の文鮮明や幸福の科学の大川隆法のような超人的とされる人物ではない。「生きた仏教」を学ぶ場所だと設定されていて、それがこの教団の説得力を高めていると思うそうだ。

(第4回目に続く)

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