史跡備中国分尼寺跡現地説明会(令和6年1月27日開催)~ ベールに包まれた古代尼寺の実像が解き明かされる

総社市上林にある史跡備中国分尼寺跡(しせきびっちゅうこくぶんにじあと)の発掘調査が進められています。

岡山市北西部の足守川右岸や造山古墳(つくりやまこふん)あたりから、総社市にかけての一帯は吉備路と呼ばれます。備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ)の五重塔は吉備路のシンボル的存在です。

その一角に、8世紀に建立されたという備中国分尼寺の跡が残されています。しかし、その実像はベールに包まれたままでした。

令和5年度から、岡山県古代吉備文化財センターによる発掘調査が進められており、その現地説明会が開催されました。

備中国分尼寺の建立

吉備路風土記の丘県営北駐車場に掲げられた周辺マップ

奈良時代初めの天平(てんぴょう)年間は、旱魃(かんばつ)・地震などの天変地異が続き、社会不安が高まっていました。

ときの聖武(しょうむ)天皇は、仏法によって国家を鎮めることを決意し、奈良に大仏をつくることなどを決めます。

こうした鎮護国家(ちんごこっか)と呼ばれる思想のもとで、国分僧寺(こくぶんそうじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔(みことのり)も発せられました。天平13年(741年)のことです。

建立の詔は、全国60余国に、それぞれ僧寺と尼寺をセットで建立しなさいというものでした。

備中国では現在の総社市上林に、こうもり塚古墳を挟むかたちで、西に国分僧寺が、東に国分尼寺が建てられることになりました。

奈良時代の日本には、備前国や備中国など、現在の都道府県に相当する国が60余りありました。

こうもり塚古墳がつくられたのは6世紀です。

史跡備中国分尼寺跡

備中国分尼寺跡に掲げられた解説板

こうして建立された僧寺と尼寺ですが、その後のことはよくわかっていません。

現在の備中国分寺は、江戸時代になって国分僧寺の跡地に建てられたもので、奈良時代のものとは異なります。一方、備中国分尼寺のその後は、寺跡は再利用されることなく、現在に至っていると考えられています

備中国分尼寺跡は、これまで詳しい調査がおこなわれていません。現地解説板には、今もむきだしで残る金堂の礎石(そせき)や、寺全体を取り囲む築地(ついじ)と呼ばれる土塀の跡などから推定される備中国分尼寺の姿が示されています。

築地で囲まれた東西は108m、南北は216mです。

岡山県古代吉備文化財センター

岡山県古代吉備文化財センターに展示されている古代寺院の瓦

発掘調査は、岡山県古代吉備文化財センターがおこなっています。

同センターは、岡山県内の埋蔵文化財の調査・研究・保存・活用を目的とする岡山県の機関です。

令和2年から、「吉備路の歴史遺産」魅力発信事業を進めており、備中国分尼寺跡の調査はその一環です。

この魅力発信事業については、別の機会にあらためて紹介したいと思います。

現地説明会受付

現地説明会の受付のようす

集合・受付場所の吉備路風土記の丘県営北駐車場には、多くの参加者が集まっていました。

全3回の説明会で、合計120人の参加者があったそうで、大変な賑わいでした。

また、説明会の翌週1週間は、現地公開が継続されました。こちらの見学者も200人以上だったそうで、関心の高さがわかります。

史跡の場所を示す標識

備中国分尼寺跡は駐車場の東へ約500mです。備中国分寺、こうもり塚古墳の脇を抜けて、標識に従って徒歩で移動しました。

発掘調査現場

発掘調査場所は南門、中門、講堂の3か所

令和5年度の発掘調査は、南門、中門、講堂の3か所を中心におこなわれました。

それぞれの場所でおこなわれた説明内容を紹介していきます。

南門

発掘前後の南門西端(北から)

南門は寺の表玄関です。

平らに整地された地面の上に、版築(はんちく)という工法で一段高い基壇(きだん)が築かれ、敷かれた礎石の上に立てられた門柱によって、瓦ぶきの屋根が支えられたと考えられています。

今回の調査によって、基壇や溝、築地の跡などが確認されました。

南門西側の地層断面(北から)

現地説明の内容を写真に重ねてみましょう

撮影場所は、基壇の西端が特定された場所です。

左手前が検出された基壇の上面で、奥部分には、切り出された断面が見えます。

基壇の上には築地の崩落土など、後世の土層が重なっています。右下に大きく掘り下がっているのはと考えられるそうです。

基壇下の断面を見ると、地山の上が整地され、その上に土を突き固める版築で、頑丈な基壇が築かれていることがわかります。

南門西端で出土した礎石

南門で出土した礎石も見てみましょう。

整地土層の上に、礎石を安定させるための根石(ねいし)が置かれています。

その上に置かれた礎石の上面は、版築によって築かれた基壇の上面と一致しているように見えます。

このように判明した南門の構造ですが、基壇の規模は、東西12m、南北9mと推定されました。

築地は高さが3.5mもあったそうです。

中門

中門の柱穴

中門は金堂へとつながる回廊内へ出入りするための門です。

ここでも基壇が確認されました。土塁(どるい)もつながっており、その規模は東西20m、南北4mです。

礎石の発見も期待されましたが、出土しませんでした

代わって発見されたのは、柱穴と考えられる痕跡です。中門は礎石を置かない掘立柱(ほったてばしら)工法で建てられたと考えられます。

比較的小規模な門で、屋根の重さもそれほどではなかったということでしょうか。

講堂

講堂西端にむき出しで残る礎石(発掘調査前)

講堂は、尼僧が学ぶための建物です。

西端には今でも2個の礎石がむき出しで残っています。

講堂は発掘調査が継続中です。基壇規模が判明したばかりで、東西28m、南北20mです。

東端では礎石かもしれない石も発見されていました

講堂で発見された鍛冶跡と考えられる焼土

講堂の調査では興味深い発見があったそうです。ひとつは、礎石が抜き取られた跡から10世紀頃の土器が発見されたこと。

また、鉄器が出土したり、焼土が確認されたりしたことです。

これは、建立後比較的早い段階の平安時代には、講堂は失われていたことを示しているかもしれません。

また、その場所は鍛冶作業場となっていたことが考えられるのだそうです。

おわりに

講堂での現地説明のようす

岡山県古代吉備文化財センターは令和2年から、「吉備路の歴史遺産」魅力発信事業を推進しています。

令和5年から、史跡備中国分尼寺跡で発掘調査が始まりました。

これまでベールに包まれていた備中国分尼寺跡ですが、今回の調査によって、南門や中門、講堂の位置や規模、構造などが徐々に判明してきています。

ただ、今回の説明内容や数値は速報です。今後の調査で変わるかもしれません

令和6年以降に計画されている金堂などの調査も楽しみです

調査成果が、魅力発信事業として紹介されることを楽しみに待ちたいと思います。

吉備路のシンボルである備中国分寺の五重塔を訪れる際は、少し東方の史跡備中国分尼寺跡も訪ねてみてはいかがでしょうか。尼僧のささやきが聴こえてくるかもしれません。

© 一般社団法人はれとこ