【山脇明子のLA通信】バスケ大好き少女がアメリカに挑戦!…磯野志歩はさらに上を目指す

18日に幕を閉じたNBAオールスターウィークエンドで、印象に残ったイベントの一つが、WNBAニューヨーク・リバティのスター、サブリナ・ヨネスクとNBA屈指のシューター、ステフィン・カリーがスリーポイントで争った “ステフィンvs.サブリナ”だ。元々のルールには、ヨネスクはWNBAのスリーポイントラインからシュートを打つと記載されていたが、NBAラインからスリーポイントを放ち、「26」と高ポイントを獲得。カリーにわずか3ポイント差で敗れたが、女子選手が見せるバスケットへの情熱、チャレンジ精神、努力の成果を見逃すべきではないことを多くに印象づけた。

バスケットボールを愛する女子選手たち――。その一人がサザンユタ大学の磯野志歩だ。「バスケをしているか、寝ているか、ご飯食べているか(の生活)」と語る磯野は、福岡大学附属若葉高校時代、体育館の横に寮があったことで、家から通うこともできた中、入寮を希望。「バスケが大好きだし体育館も好きだから自然と朝5時とかに起きて、体育館に行っていました。体育館で寝て、警備員の人に怒られたこともあります」と笑う磯野は、昨年全米大学体育協会(NCAA)1部(以降DⅠ)入りを果たし、大好きなバスケットボールに日々励んでいる。

インタビュー・文=山脇明子

◆2年間の短大を経てDⅠへトランスファー

――ずっと夢見ていたDⅠでのバスケットボールはどうですか? 磯野 毎日本当に充実しているし、ありがたいことです。身長が低いとか、アジア人とか言われたりしますが、全然戦えるし、通用するところもたくさんあります。アジア人、日本人にしかできないこともあると思うし、日本人であることを誇りに思います。

――日本人としてできるところは、どういう部分が挙げられますか?
磯野 人によって違うかも知れませんが、日本での中学、高校で培ってきたものがあるので、ディフェンスの部分や、ルーズボールとか泥臭い部分ですね。あとたった2時間の練習だから、すごく集中できます。みんな「もう疲れた」とか言って、ガス欠になっていても、自分は余裕です。

――バスケは何歳から始めたのですか?
磯野 6歳からです。始めてすぐにバスケが大好きになりました。「もうバスケしかない!」みたいな感じでした。バスケの格好でしか学校に行かないから、小6の時、「バスケの格好で登校するな」と先生に注意されたりしました(笑)。

――高校卒業後、アメリカでバスケをするという目標は、いつごろ決めましたか?
磯野 ミニバスを始めたときから、その気持ちがありましたが、親に言ったのは高校生になってからです。日本の大学も素晴らしいところがたくさんあるんですけど、部員が50人とかいるような環境では絶対埋もれると思っていました。自分はバスケがしたいし、コートに立ちたかった。アメリカは1チーム15人とか13人と聞いていたので。高1の終わりにまず言って、高2の大学を決めるときにもう一回泣きながらお願いしました。すると父から電話がありました。電話はいつも母とばかりで、父は忙しいので滅多に話さなかったのですが、電話をくれて、「アメリカに行け」と言ってくれました。父は学生時代にサッカーをしていて、携帯も何もない時代にブラジルに渡ったのですが、結局その夢を諦めて後悔したという話を何度も聞いていたので、「俺と同じ道を歩むな」という意味で背中を押してくれたのだと思います。

――まず進学したのがシアトル近郊のタコマ短期大学でしたよね?
磯野 21年の8月に渡米したのですが、コロナが流行っていたし、インターナショナル(アメリカ以外から)の生徒の入学を制限しているところもあって、書類の提出なども厳しく、(4年制の大学には)行けるかどうか、わからない状況でした。1年待つ選択肢もありましたが、待ち切れないので短大に進学しました。短大で活躍できるという変な自信もありましたから(笑)。

――実際に短大はどうでしたか?
磯野 すごく良かったです。1年目は、ガードをしているのにあまり(英語は)しゃべれなかったんです。それでも信じてくれて、平均37分のプレータイムをもらいました。短大が所属していたNWAC(Northwest Athletic Conference)ウエスタン・リージョンのファーストチームとオールディフェンシブチームに選ばれたときも、私は何に選らばれたかもわからなかったのですが、チームメートのみんなが「志歩、おめでとう」と言ってくれて。ずっと気にかけてくれました。

――2年目は、あえて短大に転校したのですよね? 磯野 はい。DⅠから声もかかっていて、本当はそちらに行くつもりでした。でも最終的にウエスタン・ネブラスカ短大のコーチがすごく気に入ってくれていたので、そちらに転校しました。アジア人のコーチだったのですが、まだコミット(転校を決める)すると言っていないのに「こうしたら良くなる」というリストを熱心に送ってくれたり、バスケの面も勉強の面も全部サポートすると言ってくれました。アカデミックの部分で、この単位がなければDⅠに行けないみたいなのもあったのですが、その短大は、その年(2021−22シーズン)全米短大体育協会(NJCAA)1部の4強入りしていて、2年生7人のうち6人がハイメジャーの大学に編入していたので、「このコーチを信じてみよう」と思い決めました。そのチームには、身長196センチ以上の選手が2人いたので、私はアシストの方が多かったのです。得点したいという気持ちはありましたが、コーチから求められていることはアシストの面だったので、その面では結構我慢したと言えます。

でも最初のセメスター(学校の前期)の後のスタッツが平均で10得点6リバウンド6アシスト3スティールぐらいだったので、それでDⅠの大学が注目してくれました。アシストを中心にプレーしていたこともあり、ウエスタン・ネブラスカが属するNJCAAリージョン9の歴代最多記録となるシーズン187アシスト(記録上。実際には193アシスト)を達成できました。それもあって、さらに多くの大学に興味を持ってもらえましたが、自分でもDⅠのほぼ全校にビデオを送ることも忘れてはいませんでした。

各チームのロスターとか、ゲームのビデオをちゃんと見て、ビデオを送る際は「なぜ行きたいのか」と、理由を添えました。メールを送る時間も考えて、読んでもらいやすい時間を選んで送信しました。するとアメリカ国内でも強豪のウィスコンシン大学やミズーリ大学から連絡が来たのです。実はウィスコンシン大への転校が決まりそうだったのですが、もう一度ロスターを見直し自分なりに考え直してみて、サザンユタ大へ進むことに決めました。なぜなら、私は短大で2年間プレーしていたので、大学でプレーできるのは2年間しか残っていません。ハイメジャーの学校に行けば名前が知られるかもしれませんが、やっぱりコートに立ちたい気持ちが強く、プレーのチャンスの多い今の大学を選んだのです。

――将来の目標は?
磯野 DⅠでプレーしているのですから、WNBAに行きたいと思いますよね。目指していない人はいるのかなって思います。男子だって、どんなに試合に出ていない選手でもNBAに行くって言いますよね。私は日本で名前が知られていないのですけど、それでもWNBAへ行きたいですと思っています。小さいころからの夢ですから。もちろん日本代表への憧れもありますし、日本を背負って世界と戦いたいと思っています。アメリカで頭1個、2個も高く、言語も違う環境で4年間頑張ってきた今野紀花さん(現デンソーアイリス)や志田萌さん(現シャンソン化粧品シャンソンVマジック)ら海外組が、いつか日本代表でプレーしているところもぜひ見たいです。

父親の後押しもあり渡米した磯野 [写真]=SUU Athletics

© 株式会社シーソーゲーム