6日死去の小澤征爾さん 長崎県内で大きな足跡 被爆50年に浦上天主堂で指揮…感謝と悼み 

「ながさき『復活』コンサート」の終演後、鳴り止まない拍手に応える(左から)小澤さん、キャスリーン・バトルさん、松川暢男さんら(松川さん提供)

 今月6日、88歳で亡くなった世界的指揮者の小澤征爾さんは、長崎県でも大きな足跡を残していた。1995年6月の「ながさき『復活』コンサート」では長崎市の浦上天主堂でタクトを振るい、被爆50年の節目に慰霊と未来への希望を込めたステージを作り上げた。関係者は小澤さんの死を悼み、改めて感謝の思いを口にした。
 同コンサートは95年6月13、14日の2公演行われた。小澤さんの呼びかけで、米国を代表する声楽家、キャスリーン・バトル、フローレンス・クイーバーをはじめ、新日本フィルハーモニー交響楽団、東京オペラシンガーズなどが出演。オーディションで選ばれた長崎合唱団約100人も歌声を響かせた。
 演奏したのはバッハの管弦楽組曲第3番より「アリア」と、マーラーの交響曲第2番ハ短調「復活」。小澤さんは冒頭、「音楽で祈りをささげたいと思ってやって来ました。50年前のことを思いながら、皆さんと一緒にお祈りをしたいと思っています」とあいさつし、「アリア」を披露。そして、未来へ向け将来をどう生きるかという希望を込めた「復活」を演奏した。
 コンサートを主催したのは、地元の音楽家や三菱グループ、銀行など経済関係者らでつくる実行委員会。その事務局長を務めた元三菱商事長崎支店長、柴田文雄さん(81)によると、小澤さんを招いたコンサートは91年の暮れに音楽愛好家の間で長崎の音楽レベル、文化レベル向上のため国際音楽祭を開きたいと話が盛り上がったのがきっかけだった。
 小澤さんは被爆40年の85年8月に、コーラスグループを率いて広島、長崎を訪れ合唱を指揮していた。小澤さん側に「被爆50年も長崎に」と招聘(しょうへい)を打診したが、他の公演もあって過密スケジュールとなることなどから、当初、来崎は難しいとみられた。
 しかし、被爆50年の年に浦上の地に立つことに、小澤さん自身が運命的なものを感じて、コンサートが実現することになったという。実行委としてはモーツァルトの「レクイエム」の演奏を考えていたが、未来を見据えたメッセージとして「復活」を選曲したのも小澤さんだった。柴田さんは「既に『世界のオザワ』となり多忙を極めていた小澤さんが引き受けてくれて、本当にありがたかった」と振り返る。

被爆50年の節目に小澤さん指揮により開かれた「ながさき『復活』コンサート」=1995年6月13日、長崎市・浦上天主堂

 国際音楽祭の開催を最初に発案した長崎市のピアノ奏者、鮎川和代さんは運営にも関わった。迎えたコンサート本番の感動を昨日のことのように思い出す。「音の一つ一つが立っていて、体に染み込んでくる。体が震えて涙が止まらなくなった。自分が浄化されたような気持ちになった」と言い、「歴史の中で長崎の土地が染み込ませてしまった悲しみを癒やすことができたのではないか」。
 長崎合唱団の指導に当たり、コンサートでもバス担当として出演した長崎純心大名誉教授の松川暢男さん(84)は「顔の表情や身ぶり、しぐさ、小澤さんはその全てで音楽を表現し、演奏者から最高のものを引き出していた。私の音楽の指導者としての“根っこ”になっている」と語る。訃報に接して「心にぽっかり大きな穴が空いたような気がする」と喪失感を覚えつつ、「長崎に大きな財産を残してくれた小澤さんの魂を語り継いでいかなければいけない」と長崎の音楽、文化の発展に尽くしていくことを誓った。

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