松田聖子を発掘した若松宗雄が語る!稀代のアイドルはいかにしてアーティストへ深化したのか  松田聖子がトップアイドルへと昇り詰めるまでを育ての親が激白!

ザ・プロデューサーズ vol.2 松田聖子を発掘した若松宗雄が語る!稀代のアイドルはいかにしてアーティストへ深化したのか

vol.1【松田聖子を発掘した若松宗雄が語る!運命のカセットテープと神メロディ「青い珊瑚礁」の秘密】

稀代のアイドル松田聖子はいかにしてアーティストへと深化したのか

『ザ・プロデューサーズ』―― それは、エンタメ界において稀代の新人を数多く輩出した「黄金の6年間」(1978〜83年)を駆け抜けた、時代の証言者たちの物語である。

新しいスターが生まれる時、そのバックステージにはドラマがある。時に、プロデューサーたちは何を考え、仕掛けたのか。彼らの軌跡を辿ることは、決して昔話ではない。今や音楽は “サブスク” なる新たなステージへと移行し、人々はあらゆる時代の音楽に等距離でアクセスできるようになった。温故知新 ――この物語は、今を生きる音楽人たちにとって、時に未来への地図となる。

さて、『ザ・プロデューサーズ』第2回は、80年代アイドルの象徴、松田聖子さんをプロデュースした、CBS・ソニー(当時)の若松宗雄さんの後編である。稀代のアイドルは、いかにしてアーティストへと深化したのか。物語は、デビュー2年目の幕明けを飾る、財津和夫さん提供の4枚目のシングル「チェリーブラッサム」を聖子さんが突如 “歌いたくない” と言い出し、レコーディングが延期された後日談から始まる。

なお、本記事はSpotifyのポッドキャストで独占配信された「Re:mind80’s 黄金の6年間 1978-1983」を編集したものである(聞き手:太田秀樹 / 構成:指南役)。

「チェリーブラッサム」を聖子に歌わせて本当によかった

――それで仕切り直しを?

そう、2、3日後に。今度は大丈夫だろうと、スタジオで「聖子やろうか」って声をかけると、またぐちぐち言うの。まだ言ってるのか。私もカチンと来て「この歌は、ただ作ったんじゃない! 聖子がこの歌を歌えば、絶対いいってイメージがあって作ったんだ!」と強く諭しても、「はい、わかりました…」とは言わない。そういうトコは頑固なんだよ。私は私で、聖子が嫌と言っても、一切聞くつもりはなかった。そんな2人のやりとりを大勢のスタッフが黙って見てる。するとね、見かねたエンジニアが気を利かせて、間に入ってくれたの。ユーモラスな口調で「聖子ちゃん、歌ってよ~。若松さんがこれだけ言うんだから」って。それで空気がフッと緩んで、そしたら聖子が「はい、わかりました」って言ってくれて。一旦決めたら、パッと吹っ切れるコだから。もう、歌い始めれば、そこからは自分の世界。あとは、そんなに苦労しないで、4、5回歌ってOKですよ。

―― プロフェッショナル。

だから、何であの時、聖子は「何となく…」って、戸惑いを見せたかというと、やっぱり、メロディーが小田裕一郎さんから財津和夫さんに変わったっていう、ここが大きい。そりゃあ、2人のメロディーラインが違うから。いい悪いじゃなく、聖子は小田さんのメロディーに慣れちゃってたから、「え? 今度の歌はこうなの?」って違和感を覚えたんじゃないかな。彼女としては、小田さんから財津さんに変わったからという見方じゃなく、何か生理的に違うな、歌いにくいなって感じたと思うんですよ。だから歌いたくないと。

―― 自分のベストが、この曲では出せないと。

そう。でも、今や逆に、非常に皆さんから喝采を浴びる1曲になっちゃって。結果的に、「チェリーブラッサム」を聖子に歌わせて本当によかった。

大村雅朗アレンジの神イントロ「夏の扉」

―― その次は、同じく財津和夫さんの「夏の扉」。夏の名曲です。タイトルはロバート・A・ハインラインの『夏への扉』から?

これは、作詞の三浦徳子さんが付けたから、オマージュ元までは…。ただ、あれは大村雅朗君のアレンジも相当、底上げしてるよねぇ。まぁ、大村君に色々とやってもらったのが、本当にいい作品に仕上がったという一番の要因です。あのイントロからしてもう…。

―― 神イントロ。そう言えば、松武秀樹さんも一緒に。

そう、大村君が、松武さんのシンセサイザーにすごく興味を持ってね。当時、画期的だったから。松武さんの機械、結構デカかったんだけど、それをいつも抱えてね、スタジオの脇に置いて。それで大村君と色々と話しながらやってましたよ。これがどうだ、何がどうだってね。で、こんな感じていこうとなって、パッと音を出して、大村君、必ず私に「若松さん、こんな感じでどうですか」って確認して、これでいきましょうって進めていくんです。

聖子を息の長い歌手にしてほしい

――その次の「白いパラソル」も財津さん。ここから松本隆さんも参加。

私はかねがね、松本隆さんの詞の世界は凄いと思っててね。そんな松本さんと組むと、聖子は基本的にアイドルっぽいから、彼女の音楽性が増幅されるんじゃないかって期待してね。それで当時、松本さんのマネージャーだった石川光さんって男性の方なんですけど、石川さんに話をして。最初は、ちょっと合うかどうか、まずはお試しとして、アルバム(『Silhouette 〜シルエット〜』)の1曲をオファーして。

―― 白い貝のブローチ。

そう。これがね、聖子が歌った時にどんな風になるかなぁと思ったら、すごくイメージ… 色合いがはっきりして。あぁ、松本さんと聖子は合うんだなぁと確信して。そっから積極的に松本さんに関わってもらうようにしたんです。「聖子を息の長い歌手にしてほしい」と話したのを覚えてます。

――そしてシングルへ。

ただ、「白いパラソル」はね、出来上がった当初は、財津さんの曲がちょっと地味じゃないかって色々な人から言われて…。サンミュージックの相沢社長も、今度の歌は地味だから、ちょっと難しいんじゃないかって、聖子に話したらしくて。彼女が「社長から言われました。 “今度の歌、あんまり売れないと思うから、次の歌を早く作ってもらった方がいいぞ” って…」。

―― (笑)

そんなことないよ。これ、いい歌だからって、もちろんフォローしましたけど。というのも、財津さん、いつもカセットテープに自分でピアノ弾いて、歌ったのを入れて持ってくる。で、聴かせてもらって、正直、私もちょっと地味かなと、最初は思ったのね。それで「財津さん、全体のイメージとして、もうちょっと派手にしてくれますか」って言ったら、いつもの財津さんは聞いてくれたんだけど、その日は珍しくね、「若松さん、大丈夫よ」って。「この頭のね、♪ラララララーラララララーラララララララララー… これはとてつもなくいいメロディーだから、このメロディーがあれば大丈夫」って。財津さんがそこまで言うんだったら…「わかりました」と、そのままやったわけ。

―― 確かに、サビよりAメロの方が印象が強い。

そう、Aメロがいいから、サビも生きてんだと思うのね。あと結果的に、「夏の扉」がアップテンポで、次の「白いパラソル」がスローポップスというバランスもよかった。

「風立ちぬ」のレコーディングは難産だった

―― 次は巨匠、大瀧詠一さんです。

ある日、松本隆さんから「若松さん、大瀧なんかどう」って言われたの。「大瀧さん、やってくれますかね。やってくれるんだったら、ぜひ…」と返すと、「うん、俺が話せば、やってくれると思うよ」ということで、話してもらって、それで大瀧さん、快く引き受けてくれて。まぁ、そっから苦戦の日々が始まるんですが(笑)。

―― レコーディング?

難産でした。まぁ、大瀧さんも頑固一徹だからね。ただ、聖子には甘い。誰の言うことも聞かないのに、聖子が間違ったりすると、「まぁ、それもいいかな。その方向でやっていこう」って甘くてさ。私が何言っても一切聞いてくれないのに。

―― タイトルの「風立ちぬ」は誰の発案?

私です。昔から堀辰雄さんが大好きで。それで、しょっちゅう軽井沢に行ったり、堀辰雄さんが入院した、富士見町ってところの療養所を訪ねていったり…。もう、そのころは病院が閉じて、半ば朽ち果てていたんだけど、関係者の方に案内してもらって、ここの部屋に堀辰雄さん入院されてたんですよ、とかね。そういうのがずっと好きで、それで「風立ちぬ」ってタイトルで作ったんです。だから、私の中では、あまり歌い上げる感じではなくて、なんかこう語りっぽい感じね。あんまり派手にしたくなかった。でも、大瀧さんのオケはどんどん派手になる。「大瀧さん、ちょっとあんまり派手な感じじゃないですけども…」って話したら、「そう?」とか言ってくれるんだけど、一切聞かない。直す気配もなし。そのまま(笑)。まぁ、それはそれで、決して悪いワケではなくて。

―― アルバムのタイトルも『風立ちぬ』です。

そう、アルバムも半分ほど、大瀧さんにやってもらったんだけど、これもまた大変で。普通、デモテープがあって、オケをアレンジャーに作ってもらって、それを聖子に渡すわけですよ。で、聴いて覚えてもらうんだけど、大瀧さん、なんにもないからね。デモテープも何もない。スタジオに来て、「じゃあやってみよう」って、大瀧さんがピアノの前にいて、聖子がその脇に立って、私も付きそいで。そこでピシッとできてればいいけど、そこから作る。じゃあ2小節作るか、次は3小節やってみようとか言うんだけど、その後どうなるか分からないから、聖子も不安げになぞりながら歌う。また大瀧さんのメロディーが複雑で、ちょっと間違ったりすると、「うん、まぁ今、聖子ちゃんが歌ったようにしちゃうか、そっちでもいいな」とか言ってね。そこでまたメロディーが変わる(笑)。その延長線でやるんだけど、まぁ大変。覚えるまでが。

―― 音の録り方も一音一音、細かく録る方。

聖子は苦労してたね。私にね、「大瀧さんと話して、もっと分かりやすいようにしてください」って言ってくるんだけど、私も分からないから、そんなことできない。だから、いつも大瀧さんにスタジオまで来てもらって、ぶっつけ本番でやるわけだけど、毎回ぶっつけ本番だからね。

―― ヘッドアレンジで決める。バンドのやり方ですね。

即興的なんですよ。でも、聖子も偉いよね。基本、愛嬌のあるコだから、本当に分からない時は、素直に笑い飛ばしちゃうんだよ。「えー、もうできない〜」とか言ってね。

―― 松田聖子さんの豪快な笑い方、大好きでした。

いい意味で、こだわってないっていうね。ああいう開放的な性格は歌にも出るし、スターになれた1つの要因だよね。あれがくよくよする性格だったら、絶対になってない。いくらいい作品で、うまく歌っても、あそこまでなんない。

―― ギャップ。

あのコのステージが面白いのも、そう。歌は繊細に歌い上げる一方、話はミーハー的で面白いから。

女性ファンが増える転機になった「赤いスイートピー」

―― そして1982年、いよいよユーミンの登場です。

これは、松本隆さんのマネージャーの石川さんが私に、「若松さん、ユーミンなんかどうですか」って提案してきて。今思えば、松本さんに話した「聖子を息の長い歌手にしてほしい」という思いが、大瀧さん、ユーミン… と、まさに開花し始めた時期でしたね。それで背中を押されるようにユーミンに連絡したら、快くよくやりますってことで、始まったんです。

――「赤いスイートピー」。これ以降、女性ファンが増えました。

実は当初、そこまで深い狙いはなくて。純粋にユーミンの優れた曲を聖子が歌えば、2人の持ち味が合わさって、素晴らしい作品ができるんじゃないかなって、ただ、それだけを考えて。それが結果的に、女性ファンが増える転機になりましたね。

―― それまでは男性ファンが多かった。

ええ、圧倒的に。それが変わり始めたのが、1つ前の大瀧詠一さんの「風立ちぬ」です。松本隆さんの文学性や大瀧さんの音楽性に、女性ファンも耳を傾けるようになって。その流れが、次の「赤いスイートピー」で一気に開花した感じです。

―― その一方、その時期、松田聖子さんの声の変調も。

いやぁ、心配でした。当時、あまりにもスケジュールがすごくて、しょっちゅう色々なところで歌っていたからね。喉を酷使するのはもちろん、まず体力が消耗されちゃってね。いくら若くても、あれだけ朝早くから夜遅くまで、連日だから。睡眠時間も削られて、体力も落ちていく。落ちていけば、当然喉も影響を受けて、「ちょっと声が出にくくなってきてるな」っていう懸念は、その前からずっと持ってましたね。

―― それはいつ頃から?

81年の半ばくらいです。

―― 後の「キャンディボイス」に繋がる歌い方の変化が、この「赤いスイートピー」から見られます。

全体的にキーを抑えたスローバラードって思いは最初からありましたね。それでユーミンにお願いして、出来上がったデモテープを聴いたら、実に素晴らしかった。ただ、ちょっとメロディーを直して欲しい部分があったので、ユーミンに話したら、まさか直しが入るとは思ってなくて、本人ビックリしてたけど、こちらの思いを伝えると快く受け入れてくれて。

―― 意外です。

一流の人ほど腰が低いっていうね。それで後日、ご自宅へ伺った際は、ユーミンと松任谷正隆さんと私の3人で、アレンジの打ち合わせで結構盛り上がったりもしました。これでもうバッチリだとか言ってね。ところが、レコーディング当日、リズムを録ろうとしたら、なんか違う。正隆さんとしては、春だし、ウキウキしてるから、それでリズムが弾んでたのね。でも、弾んでると、浮かれちゃうというか、心が澄んだ感じが若干薄れる。やっぱりこの歌はピュアな作品にしたいから、それで正隆さんに、「いや、ちょっとリズムがこれじゃないんですけども…」と話したら、正隆さんも「そうなの」って聞いてくれて。それでリズムを変えてもらって、録り直したのが、あのリズム。そんな風に、メロディーを直してもらったり、リズムを変えてもらったり、「赤いスイートピー」は、特に思い入れが深い作品ですね。タイトルも自分で考えたので。

―― 当時、赤いスイートピーって、なかったらしいですね。

なかった。でも、自分の頭の中に「赤いスイートピー」って浮かんできちゃったから、もう、あるとかないとか関係ないわけです(笑)。それで松本隆さんに「赤いスイートピー」で書いてくれますかってお願いして、ああいうピュアな詞の世界ができた。まぁ、このタイトルでよかったと思います。

―― あの世界が、聖子さんの新しい魅力を広げた。

いわゆる男性と女性の微妙な… なんて言うのかな、青春の不安定さ。純粋なんだけど、純粋ゆえの不安定さ。そういうのは、あのリズムじゃないと出ないんだよね。あれが弾んじゃうと、何度も恋を繰り返している2人に見えてしまう。初めて恋をして、初めて人を好きになって、でも初めてだからちょっと不安もたくさんあって…そういう壊れそうな世界。

―― 聖子さんの歌い方も、何か心に秘めたものを感じました。

彼女自身、その作品の持つエッセンスを感じ取って、それを自分のものにする資質は本当に優れてるからね。結果的に、この歌で聖子の可能性が広がって、後のキャンディボイスに繋がる転機になったんだと思います。

―― 表現者。

やっぱり、本人の歌と、作品のバランス、相性ってあるんですね。何を歌えば、本人が最も生きるか。ただ、このバランスというのは、自分のやりたいこととは違って、本人は判断しづらい。誰かが客観的に観て、調整していく必要があるんです。

「天国のキッス」「ガラスの林檎」黄金期と呼ばれる “1983年の松田聖子”

―― この後、しばらくユーミンの曲が続いて、翌年、細野晴臣さんが登場します。いわゆる黄金期と呼ばれる “1983年の松田聖子” です。

細野さんはね、ああ見えて、大瀧さんみたいな大変さはなかった。多分、聖子とは合ってたね。結果的に、細野さんのメロディーは聖子にとって、相当プラスになったんじゃないかな。

――「天国のキッス」と「ガラスの林檎」。

その2つの曲が入ることで、聖子の他のシングルも色合いが増して見えるんだよね。

―― 全体を底上げ的な。

やっぱり、細野さんは相当優れている。超一流だね。ただ、言葉は熱くない。どうだこうだとは言わない。こちらから「細野さん、こんな感じで」と言ったら、「あぁ、そう」「うん、わかった」… これだけ。なんにも教えてくれない。だから逆に、どういうのが上がってくるのか楽しみだったの。むしろ、自分が思っていたものとイメージが違う方が、嬉しいわけですよ。

―― クオリティはお墨付き。

あるとき、何の楽曲かな… アルバムのレコーディングの時に、「今日は細野さんだよね」って、集まったミュージシャンたちが軽く盛り上がってる。「なかなか来ないね、細野さん」とかで30分ぐらい。まぁ、誰しも30分くらいは遅れたりするから、そこまではみんな大人しい。でも、30分過ぎるとガヤガヤしだして、「細野さん、どうなってるの」とか言い出すわけ。ちょっと場がピリピリしてきて、こりゃまずいなと「電話します」とみんなに告げて、電話口で「細野さん、みんな待ってます」と言うと、「ごめん。出来ない」… これだけ(笑)。

―― もう、バラすしかない。

そう。多分ね、自分なりにイメージしたものが、出来てなかったんだよね。その状態でスタジオに行っちゃうと、惰性の中で作ることになって、クオリティに自信が持てない。それは細野さん的にはありえないんだと思う。だから行かない。そういうところは、大瀧さんとは違った意味で、またすごい。

1時間で仕上げた「SWEET MEMORIES」が時代を代表する名曲に

――「ガラスの林檎」のB面、後に両A面になる「SWEET MEMORIES」は大村雅朗さんの作曲。

これはね、大村君も、なかなかいいメロディーを持ってて、これまでもアルバムの中で、「大村君、ちょっと書いてみたら?」って何曲か書いてもらって、結構いい曲作るんですよ。まぁ、これもB面だから、大村君に頼もうかなと思って、「やってくれる?」って聞いたら、「ええっ、また書くの?」とか言いながらもOKしてくれて。ちょっと急な話だったから、なかなか頼める人もいなくて。

――CMが決まっていた?

そう。サントリーの。それで、急いで録らなくちゃいけないのに、全然あがってこなくて、「大村君、時間がないんだけど、どうなってるの?」って聞いたら、「いや、なかなか浮かんでこなくて…」「浮かんでこないって、もう時間がないのよ」。それで埒が明かないから、とにかく「今夜、サウンドシティに来てくれる?」って。

―― 麻布の。

そう。夜9時ごろ落ち合って。スタジオに入って、ピアノを前に「どこまで出来てるの?」って聞いたら、初めの、本当にもう、2、3小節しかできてないの。「♪ララララーラー」のところしかできてない。でも、とにかく作らないと始まらないから、2人で作っちゃおうと。それで、ああだこうだ言いながら、1時間ぐらいで作っちゃったの。だから、正確に言ったら、あれ、大村君と私の共作なのよ。ただ、私はソニーの社員だし、プロデューサーだったから、作家のところに入って、共作だって言う気はなかった。

―― そんな1時間で仕上げた曲が、時代を代表する名曲に。

大体、時間がたっぷりあると、いい曲ってできないね。明日締切と言われるほうが、名曲が生まれやすい。受験勉強と同じだね。時間があってもやらない。あと2日って言われて、初めて本気になる。追い詰められて、初めて力が出る。

―― CMは当初、歌手のクレジットが出なかった。

サントリーの作戦ですよ。クレジットはわざと出さないでやろうっていう。結果、逆に評判になって、「この新人歌手、誰なの?」とか、他のレコード会社から「ウチでやらせてほしい」とか、問い合わせが来たりもしました。

―― まさか、松田聖子さんがジャズを歌ってるとは誰も。

私は基本的に、何でもありって考えだから、色々な予想を超えて挑戦するのが大好きなの。また、聖子もひるまずそこに挑んで、自分の中で昇華させた感じでしたね。それで話題になると共にランキングも再上昇して、両A面に。これは素晴らしい仕事だった。

聖子ちゃんに命かけてるね

―― その次が「瞳はダイアモンド」と「蒼いフォトグラフ」。こちらも結果的に、両A面に。この時期の松田聖子さんは神がかってました。

「蒼いフォトグラフ」は、ドラマ『青が散る』だったね。ただ、私も聖子も平常心というか、意外と落ち着いてましたね。ある意味、台風の目の中にいる感覚。もちろん、1位になるのは嬉しい。その一方で、私自身は、じゃあ次どうするかって、ひたすらスケジュールに追いかけられてましたね。

―― プレッシャー?

いや、精神的なプレッシャーではなく、いついつまでに作らないと発売が間に合わないという、物理的なプレッシャー。追い詰められてる感じではなくて、逆に楽しみながら、次どうしようこうしようっていう。だから、そういう私を見て、よくユーミンから「若松さんあれだね、聖子ちゃんに命かけてるね」って言われたのね。本人は、命かけてるつもりなんて全くないのに(笑)。ただ、ひたすらね、自分の中で、次もいい作品を作っていくんだという強い思いは常にありました。

―― 当時、他のアイドルでいうと中森明菜さんが前年にデビューして、存在感を増していました。

正直に言うと、全然意識してなかった。明菜さんは明菜さんで、素晴らしいものを持ってるし、それは彼女の世界の歌だから、聖子とはバッティングしないし…。だから、聖子は聖子らしい作品を、あきられなくて、常に新しくて、そんな聖子らしい作品を作っていれば、誰がどう出てきても、負けたところで仕方ないし、まず負けないんじゃないかなっていう、そういう気持ちでしたね。

―― それを見て、ユーミンは命かけてると評したのかも。

そうかもしれないですね。

プロデューサー・若松宗雄、ヒットの法則

―― 最後になりますが、若松さんの… これだけヒットを出されたプロデューサーとしての、言い方はアレですが、何かヒットの法則のようなものはありますか。

本質はね… その人が持ってる資質を見抜いて、それがメッセージとしてうまく伝わる歌を作るのが多分、一番の鉄則なんですよ。

―― 具体的には?

例えば、本人が非常に音楽的な人であれば、音楽的な作品を作ると、逆にダメなんですよ。その人の一番大事な部分が伝わらない。伝わっても、上滑りというか、その度合いが少ない。じゃあ、その人の音楽的な部分を… 持ち味を引き出すにはどうしたらいいか。その逆、できるだけ大衆性、音楽性よりも娯楽性のある作品を歌わせるんです。

―― 逆を当てる。

うん、何を当てたら、その人の音楽性がパンと前に飛びでるかってことなんです。音楽性のある人に、音楽的なことをやらせても、同化しちゃうだけだから。同じ方向性だから、いくら素晴らしい作品でも、前に出ない。聴く人の心に響いてこない。

―― いい曲のままで終わってしまう。

ところが、互いに違った要素… プラスとマイナスがくっつくことによって、何かパッと反応が出ることがあるじゃない。あれなのよ。大事なのは、その人が持っている資質がね、どういう作品をぶつけたら反応するかってこと。それが分かれば、聴く人の心に強く、深く入って行けるパフォーマンスを引き出せます。

―― それがヒット曲。

ただ、音楽的に優れている人ほど、「いやいや、それは私の持ち味じゃない。そんなことはいつでもできるし、私の世界はちょっと違う」とか拒否しちゃう。やっぱり、本人だけでは、なかなか気付かない。客観的に、見てあげる存在が必要なんです。

――それ、松田聖子さんでいうと、若松さん的に見事にハマった1曲って、ズバリ何でしょう?

うーん…。

―― 難しい質問をしてしまいました。

「チェリーブラッサム」じゃないの。

かくして、80年代を象徴するアイドル・松田聖子を作り上げたプロデューサー・若松宗雄さんのインタビューは終わった。新しいスターが生まれる時、そのバックステージには必ずドラマがある。この “物語” から、あなたは何を読み取れるだろうか。

1つだけ確かなことがある。エンタメにおける優れた作り手とは、「過去のヒット作品をどれだけ知っているか」と同義語である。

*一部引用:若松宗雄『松田聖子の誕生』(新潮新書)

若松宗雄:1940(昭和15)年生まれ。音楽プロデューサー。CBS・ソニーに在籍中、一本のカセットテープから松田聖子を発掘した。1980年代後期までのシングルとアルバムを全てプロデュース。ソニー・ミュージックアーティスツ社長、会長を経てエスプロレコーズ代表。著書に新潮社『松田聖子の誕生』がある。

カタリベ: 指南役

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