「被災地との温度差、苦しかった」…福島から四国に避難をした私が感じたこと 東日本大震災の経験者を訪ねたら、能登半島地震被災地へのメッセージであふれていた(3)

地震で倒壊したままの海沿いの家屋=1月19日、石川県珠洲市宝立町

 犠牲者が200人を超えた能登半島地震は、なお多くの住民が厳しい避難生活を続ける。3月11日で発生13年になる東日本大震災の経験者たちに当時を振り返ってもらうと、当時の教訓や心のこもった能登へのエールを聞くことができた。(共同通信=東日本大震災取材班)

NPO法人「えひめ311」の沢上幸子事務局長(同法人提供)=2019年7月

 ▽一番苦しんだのは「被災地との温度差」 広域避難者を支援するNPO法人「えひめ311」(松山市)の事務局長沢上幸子さん(48)
 2011年3月、東京電力福島第1原発事故で福島県双葉町から夫と私、2人の子どもの4人で松山市の実家に避難した時、一番苦しんだのは被災地との温度差でした。松山の人がいつも通りの生活を送るのは当然なのですが、当時はスーパーで幸せそうに買い物をしている人を見て「笑っている場合か」とイライラしていました。
 物やお金がないことより、この街には理解してくれる人が誰もいないのではと感じたことの方がつらくて、夫に思いを打ち明けることで発散していました。能登半島地震でも石川県内外への2次避難で故郷を離れた人が2月9日時点で5千人以上いると聞きます。ストレスは口に出したり、日記に書いたりしてでも吐き出した方がいいです。
 私はその後、一家で松山に住むことにし、避難者を支援する側に回りました。そこで見たのは、故郷から取り残された感覚になり避難したことを後悔する人や、見知らぬ街で孤立して支援を受けられず、生活再建が進まない人たちです。

地震による火災で大半が焼失した石川県輪島市の「輪島朝市」周辺=1月15日午後

 2次避難は自身や家族の命を守るための決断で悪いことじゃありません。自分の判断を責めず、肯定してください。孤立しないためには、受け入れ自治体による住む家や物資などハード面だけでなく、戸別訪問など避難先の人とつながれるソフト面の支援も重要です。
 これまで普通に生活していた多くの被災者は、自治体に頼ることに慣れていません。「これ以上の支援は申し訳ない」と、SOSを出すことをためらう人もいました。避難先の人と、困ったときに相談できる関係性を築くことが大切です。子育てや高齢者支援など地域にある支援団体やNPOと連携するのも有効です。

被災地に災害用簡易トイレを設置するNPO法人「災害医療ACT研究所」の森野一真理事長(提供写真)

 ▽個包装式の簡易トイレの充実を 山形県立河北病院院長で災害医療の専門家、森野一真さん(65)
 東日本大震災の経験を伝えようと、2012年に発足した宮城県石巻市のNPO法人「災害医療ACT研究所」の理事長を務めています。避難所で被災者が不衛生なトイレを使わざるを得なかった反省から、能登半島地震の被災地を訪れ、災害用簡易トイレの設置を進めています。生活環境を整え、災害関連死を防ぐ狙いがあります。
 建築資材レンタル会社「日本セイフティー」(東京)が開発した個包装式の簡易トイレの普及を進めています。凝固剤を入れて用を足すと、特殊なフィルムで自動的に密封されます。悪臭が発生せず、細菌も遮断され、感染症予防にも役立ちます。
 災害時は断水や停電が問題になりますが、バッテリーで動き、水なしで使えるのも利点です。

石川県輪島市で倒壊した家屋=1月2日午後

 震災当時、石巻市の病院に派遣され、医療調整を担いました。避難所のトイレは非常に汚く、トイレに行く回数を減らそうと、飲食を控える被災者が続出。脱水や過度なストレス状態により、エコノミークラス症候群や心筋梗塞、脳梗塞のリスクが高まってしまう。簡易トイレは一部の避難所で使われ、効果を実感しました。
 能登半島地震の被災地のトイレ事情も悪いままだと感じています。費用面から備蓄をしていない施設がほとんどですが、清潔なトイレは災害時に欠かせないものです。事前の備えが必要です。

宮城県南三陸町の「福祉アドバイザー」を務めた本間照雄さん(提供写真)

 ▽仮設の見守り役は地域の「おばちゃん」 元宮城県南三陸町の福祉アドバイザー本間照雄さん(73)
 東日本大震災で大きな被害に遭った宮城県南三陸町の「福祉アドバイザー」として、仮設住宅の入居者らを見守る仕組みをつくりました。担い手として力を発揮したのは、自らも被災した地域の「おばちゃん」たちでした。
 住民100人以上を支援員として雇用し、仮設住宅に出向いて、入居者の安否確認や生活相談に当たってもらいました。孤独死やアルコール依存症を防ぐのが目的です。町外のみなし仮設で暮らす被災者を訪ねる支援員も、別に編成しました。
 このほか、自ら仮設住宅で暮らしながら夜間や早朝の見守り活動をしてくれた高齢の人もいます。支援員には3日間の講座を受けてもらい、毎朝のミーティングで活動報告や意見交換を繰り返し、能力を高めました。

 住民たちは地域の伝統や習慣、互いの人となりをよく知っていて、隣人のかすかな生活の変化も感じ取る力を持っています。最初は入居者から「もう来るな」ときつく当たられても、何度も訪ねるうちに「おまえの家だって誰かが亡くなっただろうに。ありがとうな」と心を開いてくれるようになりました。
 こうした役割は、外部のボランティアらに全て任せると、経験が地元に残りません。南三陸の元支援員は今、介護職や民生委員として地域福祉を支えています。
 能登半島地震の被災地でも仮設や公営住宅への入居が始まります。目の前の被災者支援だけでなく、住民主体となった見守りの仕組みづくりという視点も持ち、長期間の支援に向けて早急に準備する必要があります。

東日本大震災で被災した田んぼを再生させた農家の菅野剛さん=1月28日

 ▽どんな苦境でも土を耕し種をまいてきた 岩手県陸前高田市の農家の菅野剛さん(74)
 東日本大震災で大切な仲間を失い、岩手県陸前高田市今泉地区にある3ヘクタールの水田は津波をかぶってがれきに覆われました。避難した住民が戻りたい場所にできるのか。先が見えず、不安でした。
 塩害でコメ作り再開には何年もかかると言われていました。しかし地区を見渡せば、津波で漂流したソバや麦の種が花を咲かせている。作物は強い。そう思うと希望が湧き、早くコメ作りをしようと、被災後間もなく、がれきの片付けを始めました。
 農機具は全て流失しましたが、仲間と農事組合を結成し、国の補助金で必要なものを購入。新しい土を加え、水の入れ替えを繰り返し、土壌を整えました。
 震災を機に化学肥料を一切使わないことにしました。田植えは発災2年後の春で、秋には被災前と同じ約11トンを収穫。一粒一粒が輝いて見えました。

地震の影響でひび割れ被害が出た白米千枚田=1月、石川県輪島市(ドローンから)

 能登でも津波による被害田が多いと聞いています。今は目の前の生活で手いっぱいで、田を見る余裕はないでしょう。ただ、営農できない期間が長引けば、諦めて離農する人が増えるかもしれません。
 高齢化や担い手不足の中で、再び農地を戻すのは大変な労力が必要です。東北の被災地も同じ状況でしたが、一歩ずつ進んできました。どんな苦境にも負けず、より良い土を作って種をまいてきたのが私たち農家ですから。能登で営農が再開される日を、心より願っています。

© 一般社団法人共同通信社