20年前の国立決戦、北朝鮮に3発完勝。約3万人が掲げた青い応援ボード。レジェンド澤穂希が回想「本当に嬉しかった。勝つ原動力になった」

パリ五輪出場を賭けて、なでしこジャパンの決戦が近づいてきた。

対戦相手は北朝鮮。平壌からサウジアラビアのジッダへ会場が変更された2月24日の第1戦はスコアレスドローで終わった。今回は「アウェーゴール2倍ルール」はなく、28日、国立競技場で行なわれる第2戦に勝った方が五輪本大会の出場権を手にする、シンプルな条件になった。

20年前、やはり五輪の切符を賭けて、日本と北朝鮮は、同じ国立競技場で相まみえている。2004年アテネ五輪のアジア地区最終予選だった。大会の準決勝で勝った2チームに出場権が与えられるというレギュレーションで、グループステージの結果、日本は北朝鮮と対戦することになった。

現在は日本がFIFAランキングで上回っている(日本8位、北朝鮮9位)が、当時の北朝鮮は、中国と並ぶアジアのツートップで、日本より1、2枚、格上の存在だった。下馬評では「日本が不利」とされていた。

しかし、「たぶん、女子では初めて」と、元なでしこジャパンの10番、澤穂希氏が振り返ったスカウティング班の助けも借りて、日本は戦術を再構築。相手選手の特徴、セットプレーまで細かな分析を行ない、北朝鮮との差を詰めていった。

個々の局地戦でも、フィジカルに勝る北朝鮮の選手にひるむことなく挑んだ。その勢いを与えたのは、直前の怪我で出場さえ危ぶまれていた澤氏。キックオフ直後、渾身のショルダーチャージで北朝鮮のエース、リ・クムスクを、文字通りに吹っ飛ばした。

「あそこは絶対に負けられないなと思いました。アドレナリンも出ていたし、この先、自分が90分、試合をできなかったとしても、自分の中でのベストをやり切ろうと思って、何が何でもフィフティ・フィフティのボールは絶対取ってやろうという思いがありました。それがあのプレーだったと思います。

あのプレーは覚えているんですが、その後については、自分の記憶も飛んでいるというか...。自分の身体と心が、これまでにないくらいに追い込まれていたので、ただ、そうしたなかでも『これだけできるぞ!』と見せられたのは良かったし、それで日本が勢いづいたのなら、良かったと思います」(澤氏)

このプレーが、国立競技場に詰めかけたサポーターに火を付けた。澤氏自身は、入場時にスタンドから約3万人が掲げた青い応援ボードから、会場の一体感を感じていたという。

好プレーの一つひとつに反応する大歓声が、次のチャンスを生み出していく。荒川恵理子の先制ゴールが生まれると、国立に生まれた熱狂は誰にも消せないものとなり、地滑り的な大勝をもたらした。日本が3-0で大一番を制した。

【PHOTO】パリ五輪出場権がかかる北朝鮮戦へ!なでしこジャパンの清水梨紗、長谷川唯らが笑顔で前日練習を実施!

選手、スタッフ、ファン、サポーター、各人がそれぞれやれることをやりきって手にした20年前の勝利は、日本女子代表に「なでしこジャパン」という愛称を与え、マイナースポーツだった女子サッカーを一躍、世間に浸透させた。その流れが7年後の2011年、女子ワールドカップ優勝へとつながっていく。

「勝ってパリ五輪出場を決めて、ひとりでも多くのなでしこのファンが増え、またひとりでも多くの人に知ってもらい、子どもたちに夢を与えることもできる。それをみんなが言いすぎると、プレッシャーになっちゃうのかな(笑)。ただ、それくらい私も期待していますし、今持っている全力を出し切ってほしいと思います」(澤氏)

世界大会から遠ざかっていたとはいえ、北朝鮮が侮れない力を秘めていることは、誰の目にも明らかだ。パリ五輪の切符を手に入れるためには、20年前と同様に、「ホームの後押し」が喉から手が出るほど欲しい。

「苦しい時間帯に、ファンやサポーターが声で後押しをしてくれるのは、本当に嬉しかったですし、勝つ原動力になったと思います。今回も平日とはいえ、たくさんの方々に来ていただき、なでしこの後押しをしてもらいたいなと思っています」と澤氏。

日本の女子サッカー史に残るレジェンドも、「20年後の国立決戦」に大きな期待を寄せている。

取材・文●西森彰(フリーライター)

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