<レスリング>【2024年全日本マスターズ選手権・特集】「マットに立てたのが夢のようなこと」…事故で片腕を失った中西茂登樹さん(三重・いなべ市レスリング協会)

昨年、糖尿病で右足を失った1976年モントリオール・オリンピック代表の谷津嘉章さんが障がい者のためのレスリングを立ち上げ、自らも大会出場を果たした。2024年全日本マスターズ選手権では、仕事中の事故で右腕をなくした選手が出場。1回戦で敗れたものの、「このマットに立てたのが夢のようなことです」と振り返り、満足そうな表情を浮かべた。

▲試合を待つ中西茂登樹さん。高校以来、約32年ぶりの実戦のマットだ

出場したのは、三重・員弁高校(現いなべ総合学園高校)レスリング部出身の中西茂登樹さん(50歳。三重・いなべ市レスリング協会)。DivisionC(46~50歳)50kg級に出場した。左腕だけというハンディは大きく、テークダウンされてけさ固めで押されこまれ、かなり耐えたが、最後は両肩をマットについてしまった。

どんなことでも、スタートすることが大事。中西さんは片腕の選手でもマットに立てることを証明し、「次回に向けて頑張っていきたい気持ちになりました。(出場できたことが)励みになりました」と、より前向きな気持ちが芽生えた。相手の藤澤美和男さん(山形・山形クラブ)が、一切の手加減をすることなく、全力で闘ってくれたことも、うれしいこと。「感謝したいです」と話した。

▲勝つために全力を尽くすのは相手への礼儀。藤澤さんは手加減することなく闘ってくれた

右腕をなくしたときは、「もう人生が終わった」と思ったが…

藤波朱理選手(日体大)の父・俊一さん(いなべレスリング・アカデミー監督)が員弁高校教員になった初期の頃の教え子。高校を卒業したあとの22歳のとき、仕事中の事故で右腕の大半を失った。

そのときは、「もう人生が終わった」と思うほど落ち込んだという。支えてくれたのが、レスリング部の仲間や周囲の人だった。さすがにレスリングをやることはなかったが、結婚し、子供がいなべレスリング・アカデミーに通うようになると気持ちが変わった。子供とレスリングのことを話す機会が多くなり、レスリングへの気持ちがよみがえってきて、自らもマットの上で体を動かすようになった。

▲試合後、マット復帰の原動力となった長男・真大君(右端)と記念撮影。左端は平山勝久・いなべアカデミー・コーチ、その右は高校時代の恩師・藤波俊一監督

ただ、試合出場については、ハンディがあるのでまともな試合はできないと思ったし、これまで例がないこともあり、「出ても周囲に迷惑をかけるだけだろう」と二の足を踏んでいたのが現実だ。しかし、藤波監督から「オレがセコンドにつくから、出てみないか」と言われたことで勇気が沸いた。

「レスリングをやっていて、本当によかった」

藤波監督だけでなく、いなべレスリング・アカデミーの平山勝久コーチや選手、練習の相手をしてくれるいなべ総合学園高校の選手が試合出場の後押しをしてくれた。「多くの人の協力で、このマットに立てたことを実感します」と言う。右脚を失った谷津さんがマットに立ったことも、「自分もできるかも」と勇気をもらったと言う。

ふだんは、いなべレスリング・アカデミーでキッズ選手とともに練習し、ときに母校で高校選手が相手をしてくれる。左腕だけなので、最初はその腕を取られたときに「恐怖心を感じた」と振り返る。いかにして取られないようにするか。監督や選手からもアドバイスをもらって少しずつ改善。今後は足技を磨いたり、パワーをつけたりし、「挑戦していきたい」という気持ちだ。

▲バランスを崩されるときつい。今後の練習で補えるか

レスリングという共通の話題があるので子供とのコミュニケーションも多くなり、出場することで家族の団結も強固になった。「レスリングをやっていて、本当によかった。今後も頑張りたい」と、ハンディを乗り越えて人生を闘い抜くことを誓った父親は、身体に障がいを持ちながらレスリングに親しみたい人たちの目標になることだろう。

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