「私だってつらいんや」おえつ漏らす 記者が見た寺越友枝さん

一時帰国を果たし、出迎えた母友枝さん(左)と握手する寺越武志さん=2002年10月3日、成田空港

  ●大荷物抱え何度も平壌へ

 社会部に在籍していた2007(平成19)年から3年余り、寺越友枝さんを取材した。当時70代後半の友枝さんは2~3カ月に1回のペースで北朝鮮を訪問し、平壌に暮らす武志さんと面会していた。関西国際空港に帰国したところを待ち構え、帰りの特急サンダーバードで現地の様子を聞くのが、いつものパターンだった。

 金沢に着くまでの間、しばしば圧倒された。武志さん一家の近況を語り続け、息子や孫と過ごす時間がいかに貴重かが伝わった。喜怒哀楽が明瞭で、イエス、ノーもはっきりしていた。「これは記事にしたらダメ」と言われたこともあった。

 08年1月、訪朝に同行する機会を得た。結果的に、北國新聞ではこれが最後の同行取材になった。忘れられないのは、兵役に就いていた武志さんの次男南哲さんについて、武志さんが「戦争する訓練をしている」と説明した時だ。友枝さんは、南哲さんの拳をさすりながら「こんなにゴツゴツして」と切なそうだった。

 帰国から程なく、友枝さんに借りた資料を返しに金沢市内の自宅を訪ねた。その際に「北朝鮮に行って帰ってくるのは大変ですね」と率直な感想を口にした。

 関空から中国・瀋陽経由で平壌入りしたが、厳冬期の訪朝は当時20代の自分でさえこたえた。武志さん一家のために大荷物を抱えた友枝さんは、なおさらだろうとの思いからだった。

 友枝さんは押し黙り、しばらくすると「私だってつらいんや」とおえつを漏らした。和室で机を挟んで向き合いながら、返す言葉もなかった。

 「近くて遠い国」と向き合ってきた友枝さん。よく「涙は枯れた」と口にしていたが、決してそんなことはなかった。心の奥に、言いようのない感情を抱えていたのだろう。武志さん一家が自由に北朝鮮と日本を往来できる日を切望していたが、その日を迎えられないのが残念でならない。(富山新聞経済部長・水口慶彦)

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