「SNS的な言葉」の専制に対峙する小説ーー九段理江『東京都同情塔』論

■生成AI時代のディストピア小説

『東京都同情塔』(新潮社)は、2023年11月に発表され、今年1月に第170回芥川賞を受賞して話題を集める九段理江の6作目の小説である。

物語の舞台は2020年代の近未来の――そして、ザハ・ハディド設計の国立競技場が竣工し、コロナ禍の2020年にオリンピックが開催された可能世界の東京。小説の語り手はふたり、「私」こと建築家の牧名沙羅と、「僕」こと彼女より歳下の青年・拓人。沙羅は目下、気鋭の建築家として、都心の新宿御苑内に建設が計画されている超高層タワー「シンパシータワートーキョー」の設計を手掛けている。作中の日本では、現実の私たちの世界のように、社会的寛容論やマイノリティに対するポリティカル・コレクトネスが過度に浸透している。シンパシータワートーキョーもまた、社会学者で幸福学者のマサキ・セトなる人物の提唱したポリシーに基づいて、犯罪者や非行者を「ホモ・ミゼラビリス」(同情されるべき人々)なる呼称で呼び替え、「誰一人取り残さないソーシャル・インクルージョンとウェルビーイング」の実現を目指し、棟内では彼らが――むしろ俗世よりも――快適な生活を送れるように設計された、いわば新時代の「刑務所」なのだ。昨今のカタカナ表記の名称の時流に乗り、有識者たちによって決められた「シンパシータワートーキョー」という名前に違和感と覚える沙羅は、恋人の拓人が考案した「東京都同情塔」というネーミングを絶賛する……。

社会的包摂とポリコレと言葉狩りが隅々まで行き渡り、「多様」で「寛容」で「適切」な、しかし真綿で首を絞められるような息苦しさを誰もが感じて生きるこの21世紀の現代特有のモティーフをあちこちに散りばめた巧緻なディストピア小説であり、作中に登場する生成AIの記述を、実際にChat GPTを活用して執筆したことで、マスメディアからの脚光を浴びていることでもすでに知られている話題作だ。

■ポストヒューマン小説としての九段作品

ここ10数年続くいわゆる第3次ブームとも呼ばれるAI開発の潮流の一つの到達点として登場したChat GPTやStable Diffusionなどの生成AIは、2022年から2023年にかけて社会の各方面に大きなインパクトをもたらした。『東京都同情塔』もまた、小説創作におけるその試みの一つとして、日本文学で指標的な意味を持ったことは紛れもない。ただ、こうした奇抜な試みが、単に表層的な時流に乗っただけのものではなく、本作の文学表現や近年の社会的文脈、そして九段自身の創作上の履歴とも密接に関連するものであることは、この小説を読み解く上でまず押さえておく必要がある。

というのも、九段が本作執筆にあたって実践した、この人間=作家と人間でないモノ=AIとのコラボレーション(協働/競合的執筆)というあり方は、本作の世界観や叙述のレベルでも形式的に反復されているためである。作中では、ヒトとモノ、有機物(身体)と無機物(建築)、言葉と事物……といった本来は相互に対立し合うとみなされる二つの要素群が、あるときは同一のものと語られたり、境目なく混ざり合ったり、親密に接触し合う姿や認識がいたるところに描かれる。最も典型的なのは、沙羅が、自分も含めた人間存在を建築物とほとんど同一視する認識が全編を通して披瀝される点だろう。沙羅は、「社会通念を大きく逸脱する趣味嗜好を誰かに開陳したことはないが、私は陸上生物であるところのヒトを「思考する建築」、「自律走行式の塔」と認識して」(26頁)おり、またホテルの窓から国立競技場のスタジアムの屋根を眺めている時には、「ほとんど自分と屋根とが一体化しているといってもいいほど」(28頁)に建築物に没入してしまう。

また、その彼女の認識には、自身と建築物の一体化のみならず、無機物であるはずの建築を生きもののような有機物として眺めるという、ある種の倒錯した感性も関わっている。例えば、沙羅の目には、ハディドが設計した国立競技場は何かヒトならぬ大きな生きものに見られており、しかもそこには性差まで付与される。「今にも動き出すのではないかという生命感を湛えた構造物は、周囲に林立するビル群や道路を走る車のライトを養分にして独自進化を遂げた、巨大生物のように見える。東京が生み出した世にも美しい生きもの。その生きものが、開閉式の半透明の屋根をひれのように自在に動かし街を回遊する、SF映画さながらの映像が鮮やかに脳内に映し出される。彼女には意志があり、彼女の意志がこの雑多な都市を導いていくのだ」(33頁)。

この引用箇所にも表れているように、以上のようなヒトと建築物の一元論には、つねにセクシュアルなニュアンスがつきまとうのも特徴だ。例えば、「有機的なダイナミズム」を備えていたというスタジアムの当初のザハ案を評した「初老の建築家の男」は、沙羅に向かって、「僕の心がねじくれていることは認めるよ。それにしても修正案は、女性のアレにしか見えなかった。どこからどう見てもグロテスクなスタジアムだった」(31頁)と「不適切」な感想を零す。だが、沙羅にしたところで、「僕」=拓人に対して、「君みたいな綺麗な建築を見つけるとね、人間はここまで美しくなれるんだって、希望を持つことができる、この弱い私は。[…]メンテナンスに相応の費用を要するのは、建築も人間も同じでしょ」と、やはり彼という人間を建築と同一視しつつ、「さっき、ホテルの部屋で、君が私に触ってくれて嬉しかった。もっと君が私に近づいて、もし私の中に入ってくるようなことがあれば、きっと天にも昇る気持ちになるでしょうね」(77頁)と、そこに先ほどの男と同じような、セクシュアルな感慨を付け加えるのだ。そして最終的に、彼女は、「すでに私はもう、何かの外部にも内部にもいない。私自身が外部と内部を形成する建築であり、現実の人生なり感情なりを個々に抱えた人間たちが、私に出入りする」(140頁)のだという思いを口にするのである。

『東京都同情塔』は、作家がChat GPTと協働しながら作品を創作をするように、まさに「何かの外部にも内部にも」ならず、さまざまな他者たちが「私に出入り」し、相互に包摂し合い、一体になりながらヒトを超えた何かに生成変化していく、「ポストヒューマン」な手触りをたたえた小説になっている。例えば、沙羅は作中で、あるアメリカ人男性ジャーナリストから「Ms. Machina?」(126頁)と声をかけられる。この時に綴られる文字は、いみじくも「機械machina」と同じであり、彼女自身がポストヒューマンなオブジェクトと等価な存在であることが小説で暗示されている。本作が取り上げるAIから気候変動まで、ポストヒューマニティが時代の思潮となってすでに久しいが、『東京都同情塔』の描く世界もまた、それに近い思想を共有していると言える。

ちなみに、こうしたリアリティは、他の九段作品にも共通して認められるテーマでもある。ヒトと馬の壮大な交流の歴史を描いた野間文芸新人賞受賞作「しをかくうま」(2023)はそれに最も該当する先行作だと言える。ここから「ポストヒューマン文学」としての九段作品について論じることも可能だろう(さらにいえば、九段は、川上弘美や笙野頼子など、SFやファンタジーの強い影響を受けて1990年代にデビューした一連の女性作家の系譜に位置づけることもできる。例えば、それはこの後に述べる「言語」への着目とも相俟って多和田葉子などにも共通する指向を持つだろう)。

■九段小説におけるリズムの問題――SNSと現代文学

ただ、以上のモティーフとも連動しながら、本作でより重要なのは、「言葉」や「言語」への強い拘泥である。この書評では以下、この点について主題的に書いてみたい。

すでに概要の説明の際に触れたことだが、本作の主人公は、固有名の表記の仕方(カタカナ、漢字、英語、日本語など)にきわめてセンシティヴな――それはレイプという激しい生理的忌避感として語られる――人物として描かれる。しかも、彼女の中では、その抽象的な言葉(言語)は、具体的な現実の物質と、これもフラットに並べて置かれる存在としてしばしば語られる。例えば、シンパシータワートーキョーを東京同情塔と呼び直すことを提案した拓人が、「名前の話でしょ。名前は物質じゃないから、建物の構造とかと関係ないんじゃない?」と問うのに対し、沙羅は、「名前は物質じゃないけれど、名前は言葉だし、現実はいつも言葉から始まる」(65頁)と返答する。ここでも、「現実」と「言葉」は、対立項では結ばれず、混然と一体化しうるものとされているのだ。

付け加えておけば、九段が強調する、こうした「現実=物質と一体化しうる言葉」の重要な性質として、ラッパーのライム(韻)のような「リズム」が深く関わっていることだ。「見て。東京+都、同情+塔。語の構造はシンメトリーだし、音的にも綺麗な韻を踏んでいて、刑務所にふさわしい適度な厳しさも含んでいる。これだけしっかりしていれば、きっとバベルの塔だって崩れはしない」(65頁)。すなわち、ここでは物質=バベルの塔の堅牢さの根拠が、言語の対称的な構造に由来するとみなされるのである。こうした韻を踏むような塔の名称を考えた拓人に、沙羅は、「君は気の利いたライムが勝手に口から出てくるラッパーか何かなの?」(64頁)と尋ねるが、こうしたヒップホップやライミングによるリズムのモティーフが、九段小説のかねてからの重要なテーマであることは言うまでもない。もとより、第126回文學界新人賞を受賞したデビュー作「悪い音楽」(2021)では、語り手の音楽教師がラップを披露するし、『ユリイカ』誌のフィーメールラップ特集(2023年5月号)に寄稿した「Planet Her あるいは最古のフィメールラッパー」(2023)もそうだ。こうした現代文学とラップ、あるいはリズムの問題に関しては、これ自体、大変興味深いテーマなのだが、ここではこれ以上踏み込んで扱わない。ただ、本作の文脈から触れておかなければならないのは、「東京+都、同情+塔」のようなラップ的なリズムが、昨今のSNS上で流通する言葉とことのほか馴染み深いことだ。

例えば、本作の発表とほぼ同時期に刊行された『〈ツイッター〉にとって美とはなにか――SNS以後に「書く」ということ』(フィルムアート社)で大谷能生は、日本語の詩形式の最大の特徴は「テンポの変化」だという詩人・ドイツ文学者の菅谷規矩雄の1970年代の詩的リズム論を参照し、まさにTwitter(現・X)における「wwwwww」を、「七五調による「テンポの変化」を代用するような表現=形式なのである」(20-21頁)と述べている。「ツイッターおよびネットの書き込みにおいてwwwwwwを連打している書き手は、おそらく無意識的に、この連打によって生まれる「加速化」=「テンポの変化」をここで自身の表現に導入していると考えることはできないだろうか。[…]つまりwwwwwwによって書き手は読み手に対して、自身が表現したいと思っている意味を支える「詩的リズム」の提示をおこなっているのである」(21頁)。他にも、近年のXと短歌の相性のよさなど、詩やラップのリリックのような言語的リズムは、SNSの言葉とよく馴染む。

私の見立てでは、九段が自作に導入するラップも、この文脈で理解した方がよい。そして、ここには、「生成AIの活用」といったトピックよりも――それもまったく無関係ではないのだが――もっと重要な、『東京都同情塔』が、現代日本文学の言語表現にもたらしている画期がこめられているのだと思う。結論を先に言えば、それは「政治化する言葉」とSNSの時代に、文学の言葉はいかにありうるのかという問いである。

■SNSとAI時代の小説の言葉

大谷は、『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』で、以下のように書いている。

「[…]ぼくたちは二一世紀の現在、「書くこと」と「話すこと」がきわめて近接しているスマートフォン上のSNSを使って、また再び「言語活動の力」を巡る闘争の現場に立っている。SNS上では、その入力の容易さと、発信の双方向性と、常時接続による過剰なまでの文脈の増加によって、「書くこと」はかぎりなく「話すこと」へと近づけられている。ここでぼくたちは、まるで誰かに話しかけるように何かを書く。[…]SNSに投稿することによって、ぼくたちは「話すこと」によって生み出される親密な言語活動と、「書くこと」に備わっている祭式性、疎外性、歴史性とのあいだで引き裂かれることになる」(308-309頁)

ここで大谷は、SNS=Twitter以降の地平においては、「「書くこと」はかぎりなく「話すこと」へと近づけられている」と述べる。これは、「(ユーチューブとオーディオブックの時代に二千ページ超の小説を読む暇のある人間がどこに存在するというのか?)」(92頁)という『東京都同情塔』のある作中人物の感慨にも通底するものだ。

とにかく、それは言い換えれば、個々の私的に発する(綴る)言葉の意味が、絶えず公的で社会的なそれへと否応なく結びつけられてしまうというきわめて今日的な状況をも内包している。それは、『東京都同情塔』では、拓人による次のような感慨として記される。

[…]Twitterは本来独り言をつぶやくために生まれたサービスだった。愛称ではなく、正式名称が本当に「Twitter」だった頃だ。けれど今では、独り言とは真逆の、正しくて、意味があって、衆目を集める主張を、大きな声で叫ぶ人ばかりがいて、つまりこれが本当に時間が流れているってことなのかと、年寄りみたいな感想が自然と出てくるくらいには僕も成熟したみたいだ。(110頁)

SNS以後の私たちの駆使する言葉は、もはや私的な「独り言」ではありえず、それとは「真逆の、正しくて、意味があって、衆目を集める」公共的で政治的な言葉へと絶えず変換され、受容される。そこでは、かつての「文学」の言葉は、「政治」の言葉へと簒奪される。沙羅がつけた「全性別トイレ」という漢字混じりの名称が、あらゆる当事者への配慮のために、「ジェンダーレストイレ」というカタカナ語へと「政治的」に改められるように。マサキ・セトがいうように、「言葉は、他者と自分を幸福にするためにのみ、使用しなければな」らない功利主義的なものとなる(115頁)。

実をいえば、こうした問題意識は、九段の過去作でもある程度一貫して見られる。例えば、第73回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した「Schoolgirl」(2021)では、YouTubeでライブ配信を行っている娘とその母親が、「ニュース」と「小説」をめぐって言い争う。「小さな説がお気に召さないなら大きな説でもいいよ。たしかにニュースは小説よりも大きな支持を集めているみたいだし。小説よりも影響力を持っているという点では大説と呼んでもいいかも」。「小説」(小さな説)と「ニュース」(大きな説、大説)を対比する母親に対して、娘は、「まず、小説とニュースはまったくの別物だよね」と賢しらに反論する(『Schoolgirl』文藝春秋、76頁)。

もちろん、各国の「近代文学」を確立したバルザック、ディケンズ、夏目漱石といった作家たちがいずれも「新聞小説家」であったように、そもそも小説novelとニュースnews/nouvellesは「まったくの別物」どころか、歴史的に同根の存在であることは文学史や文芸批評の分野ではしばしば言われることだ。だが、そのこととは別にして、作中の娘の反論にもかかわらず、「小説」のようなある個人のミニマムな言葉の世界と、「ニュース」のような公共的で政治的な言葉の世界が、限りなく重なり合っているのが、21世紀の私たちの言葉を取り巻く状況なのである[註]。

『東京都同情塔』では、沙羅が拓人に、「言葉と現実が乖離し始める前に、整理しておきたいの」(74頁)と呼びかける。この小説で九段が対峙し、問うているのは、おそらくこのような言葉をめぐる環境に他ならない。それは、書くことと話すこと、言葉と現実、私的な言葉と公共的な言葉、文学の言葉と政治的な言葉、自己表出と指示表出……といったそれまである程度自明であった対立軸が、ことにSNS以降、截然と区別できなくなり、依って立つ底が抜けて浑然一体となってしまった私たちの時代のあらゆる言葉が向き合わざるを得ない宿命なのである(その意味で、本作の読解においては、同じミシェル・フーコーの著作でも、刑務所と統治性のモティーフから即座に連想しがちな『監獄の誕生』よりはやはり『言葉と物』を参照すべきだろう)。「文学の言葉」が、ややもすれば、「政治の言葉」にすり替えられるほかないこの過酷な現実に対して、その状況に擬態しつつ、拮抗しうるほど強い小説の言葉を紡ぎ出すこと――『東京都同情塔』で九段理江が描き、また果敢に挑んでいるのは、そういう試みなのだ。この点において、現在、九段ほど自覚的に取り組み、また成功している作家はいないだろう。

その簡潔でハードボイルドな文体が印象的な九段の小説の決定的な新しさとは、Chat GPTの活用云々という以前に、実はこの「現実はいつも言葉から始まる」ような、世界と言葉がまだ見ぬ関係を取り結ぶ状況に対して、きわめて自覚的にリアクションする言葉の鋭敏な身振りにこそあるのではないか。アドルノをもじって言えば、「TwitterとChat GPT以降に、小説を書くことは野蛮である」なんて警句が口にされそうな現代において、それでも小説が可能であり、それどころか、よりその表現がアップデートしうる予感を強く感じさせるのが、九段の作品群なのだ。

[註]

この私的でミニマムな、いわば「文学的」な言葉がシームレスに公共的で「政治的」な言葉と直結してしまうという言葉をめぐる今日的な現象は、私の考えでは、問題として存外に大きな射程を持っている。書評の本筋からは逸れるが、補註で、大掴みにアイディアだけ素描しておきたい。

上記の現象の主な要因が、『東京都同情塔』でも描かれた、ポリティカル・コレクトネスやアイデンティティ・ポリティクスをめぐる現代人の言葉に対する感性的な変化に根差していることは間違いない。だが、それとは別に、そこにはメディア環境の問題も大きく関係していると思われる。

例えば、GoogleやAIがここ20年ほどの間にウェブの情報環境で推し進めてきたのは、あらゆる事物(データ)と言語(記号)を一対一で逐一対応づけることで、この世界の正確無比な細目表を作成するテクノロジーだったといってよい。この言語(検索語)と事物があたかも透明に一致しているかのような情報技術特有のリアリズムは、最近、『文学のエコロジー』(講談社)で山本貴光も触れた、認知科学の分野における「記号接地問題」――「言語という記号と、現実世界とが「接地(グラウンディング)」しているかどうか」(399頁)――とも関連する。

この問題については、先ほどの『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』の大谷も、19世紀にコナン・ドイルがシャーロック・ホームズ譚で描写した世界認識に仮託して似たようなことを述べていた。

世界は「索引帳」や「大英国百科事典」その他のデータベースに記録された情報の固まりとして存在する。ドイルたちが信じ、作り上げようとした世界とはそのような、言述と事象がなめらかに、過不足なく、十全なかたちで対応している世界であった。[…]

このような世界は、『言美』的に言うならば、「指示表出」の網目が緻密に正確に組み上げられた、個人のどのような記憶も感情もそれに相応しい「表出」がすでに用意されている、個としての表現がそのまま類的なものとして機能するような社会であるだろう。(109頁)

ここで大谷は、吉本隆明がかつて主著『言語にとって美とはなにか』(1965)で提起した「表出理論」――人間の言語活動は客観的な対象を指示する「指示表出」と発話者の内的表現を吐露する「自己表出」の二重性によって成り立つという考え――の用語を借りながら、ドイルが描いた世界とは、「個人のどのような記憶も感情」(自己表出性)も、つねに現実的な「指示表出」の言葉のネットワークに置き換えられる世界だったと解説している。すなわち、この「個としての表現がそのまま類的なものとして機能」し、「言述と事象がなめらかに、過不足なく、十全なかたちで対応している世界」というのも、まさに、検索エンジンとSNS以降の時代に私たちの言葉の環境が直面している状況と同じなのだ。

そしてさらに、以上の言葉のプログラムは、17~18世紀西洋の古典主義時代にライプニッツらが構想した普遍言語計画と近しいところがある。例えば、この時代の人文知のエピステーメーの変遷について考察したミシェル・フーコーは、この古典主義時代の言語の占めた地位について、「至上であると同時に、目立たないものである」(『言葉と物――人文科学の考古学』新潮社、102頁)と表現したが、つまり、ここでも言語(記号)の物質性は、ほとんど意識されないまでに無色化され、世界の事物と一致するのである。現在の検索エンジンやSNSをはじめとする情報環境で流通する言葉に起こっている事態とは、ある側面では、このような古典主義時代のエピステーメーの回帰だといってよい。

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