普段は山伏姿、シベリア仕込みの耐寒体操披露… 青森県五所川原市金木町の「仙人」小山内漫遊とは

ほら貝を手に立つ小山内漫遊(左)。「権現崎の仙人」と呼ばれた=1973年
公開講座で漫遊が披露した耐寒体操の記憶をたどる荒関さん(左)
漫遊が生前吹いていたほら貝を手にする齋藤館長。現在は中泊町博物館が所蔵している

 現在の青森県五所川原市金木町出身で「権現崎の仙人」と呼ばれた小山内漫遊(本名・小山内嘉七郎、1896~1978年)にスポットを当てる取り組みを、同市の市民団体「公開講座 奥津軽」が始めた。山伏の格好で県内を歩き、民謡を歌い、シベリアの先住民から習った耐寒体操を広めたりした人物だが、今は地元でも知る人は少ない。同団体の角田周代表は「金木にこんな人がいたんだということを、次の世代にも知ってもらいたい」と語る。

 同団体は8日、五所川原市の金木公民館で講座を開き、地元の郷土研究家・荒関勝康さん(83)と中泊町博物館の齋藤淳館長が、漫遊の足跡や人物像について語った。

 「青森県人名事典」(東奥日報社刊)や齋藤館長によると、漫遊は学校を出たあと農業をしていたが、1918(大正7)年にシベリアへ渡った。そこで先住民から耐寒体操を習得。「アザラシ体操」と名付け、戦後普及させようと学校や刑務所、自衛隊などを回った。

 一方でプロの民謡歌手の顔も持ち、北海道や東北などを一人で興行して歩いた。さらには現在の中泊町小泊地区にある権現崎で神秘体験をしたとして、自ら仙人を名乗っている。

 額に兜巾(ときん)を着け、手にはほら貝、白装束で街を歩き津軽鉄道やバスに乗る漫遊の姿は、いやが応でも目についた。晩年は旧金木町嘉瀬にある観音堂に一人で寝泊まりしていたという。

 市内外から10人余りが参加したこの日の講座では、荒関さんが1950年に金木小学校で見た漫遊の姿を紹介、児童らの前で耐寒体操を披露した時の様子を語った。冷水をかぶった後、手で体をこすり、しばらくすると体から湯気が上ってくる光景に、子どもたちは驚いたという。「姿勢が良くて、貫禄があった。ちょっと怖い感じもした」と荒関さんは振り返った。

 一方、齋藤館長は漫遊が各地を歩く中で、景勝地である権現崎の宣伝に力を尽くした功績があると説明した。「元祖“観光カリスマ”。小泊では随分感謝された人だった」とし、博物館が所蔵する漫遊のほら貝も披露。この後、生前の漫遊を知る参加者からも思い出が語られた。

 「奥津軽の深みを学び、掘り起こし、記録に残す」ことを目指し、2018年に始まった「公開講座 奥津軽」だが、漫遊にクローズアップしたのは今回が初めて。自身も子どものころ列車の中で歌う漫遊を見たという角田代表が企画した。

 「もともと興味のあった人物。金木は個性的な人間を輩出しているが、いま記録にとどめないと、全て消えてしまう。どんどん調べていきたい」と角田さん。漫遊の「規格外」の生涯には真偽がはっきりしない部分もあるため、同講座では今後も掘り下げていくことにしている。

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