【京都歴史観光】 幕末の京都。松平容保と会津藩士たちの足跡を追ってみた 「新選組の誕生」

画像:蛤御門(撮影:高野晃彰)

時は幕末。文久年間(1861年)に入ると、尊王攘夷運動は最高潮の盛り上がりをみせるようになる。

特に京都には全国から自称・尊攘派志士が集結し、「天誅」と称する暗殺や脅迫行為が横行し、無法地帯と化していた。

これを見かねた幕府は1862(文久2)年に、会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)を京都守護職に任命。

容保は藩論が反対する中で、「藩祖正之公のご遺訓がある以上は受けないわけにはいかない」と京都守護職拝命を決め、藩士1,000名を率いて上洛した。

画像:松平容保 wiki.c

会津藩は、幕府を中心とする公武合体派として、反幕府的な活動を展開する尊王攘夷派と激しく対立する。そして、藩士とともに、新選組も配下におき、京都市内の治安維持にあたった。

孝明天皇は、正義を貫き、難局に対して真摯に向かい合う容保と、会津藩を厚く信任。

1863(文久3)年の八月十八日の政変で、長州藩1,000余名および急進派の三条実美ら7人の公家の排除に成功した。

画像:孝明天皇 wiki.c

さらに、1864(文久4)年、長州藩が池田屋事件をきっかけに京都へ出兵する禁門の変(蛤御門の変)が起こると、薩摩藩とともにこれを撃退した。

しかし、この2年後、坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれると、倒幕の勢いは一気に激しさを増す。あくまでも幕府の先兵として戦う会津藩は、鳥羽伏見の戦い戊辰戦争と追い込まれていくことになる。

今回は、そんな会津藩と松平容保の足跡をめぐるため京都に赴いた。

今回の歴史散策の起点は金戒光明寺で、終点は京都御苑となる。所要時間は、おおよそ3時間30分だ。

目次

最初の京都守護職本陣が置かれた「金戒光明寺」

画像:金戒光明寺御影堂(撮影:高野晃彰)

金戒光明寺」へのアクセスは、市バスの岡崎道から歩いて10分ほどだが、インバウンドが戻った京都の路線バスは、今や移動の足としては、混雑ゆえの遅れや乗車できないなどの弊害が多く、甚だ心もとない。

そこで、京阪の神宮丸太町駅で下車。春日北通りを東へ真っすぐに進むと、20分ほどで同寺に到着する。

「金戒光明寺」は、浄土宗の大本山だ。

同宗の開祖・法然上人が比叡山を降りた際、初めて草庵を結んだ紫雲山こと黒谷の岡を寺院としたところで、京都人からは、「黒谷さん」の呼び名で親しまれている。

画像:金戒光明寺山上墓地からの風景(撮影:高野晃彰)

実はこのお寺、江戸時代に入ると徳川家康が京都の守りのために知恩院とともに城郭構造に改めた。

京都には徳川氏が築いた有名な二条城がある。しかし、平城の同城では本格的な戦闘は難しい。

対して小高い岡である黒谷は、自然の要塞としても機能する。岡の周囲を歩いてみれば、白川通りに面した東の崖が険しいのが一目瞭然。西側も斜面となっているので、攻めるとすれば丸太町通リに面した南側からとなるが、まるで城門のような山門が睨みを利かしている。

画像:金戒光明寺山門(撮影:高野晃彰)

そんな「金戒光明寺」の約4万坪の広大な寺域には1,000名の軍勢を収容できたという。

京都守護職を拝命した松平容保が、最初にその本陣をここに置いたのはそのためだった。

そして、ここで浪士組として京都に残った芹沢鴨近藤勇らを面談し、新選組が誕生したのである。

画像:金戒光明寺会津藩墓地(撮影:高野晃彰)

1万基を超える墓碑が建つ同寺の墓地の中でも最上部に位置する山上墓地。その北東側に「黒谷会津藩墓地」がある。

塔頭の西雲院が管理する300坪の広い墓域には、1862(文久2)年~1867(慶応3)年の間に京都で亡くなった352名の会津藩士が祀られている。

特に鳥羽伏見の戦いで戦死した115名は、「会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑」として祀られ、毎年6月第2日曜日には、殉難者追悼法要が営まれる。

では、次に山門から南に降りた丸太町通を西へ進んだ「平安神宮」の一画にある「京都守護職屋敷旧門」へ向かおう。

駐車場の一画に残る貴重な「京都守護職屋敷旧門」

画像:京都守護職屋敷旧門(撮影:高野晃彰)

京都守護職屋敷旧門」は、平安神宮の南西隅の一画、京都市武道センター(旧武徳殿)に移築されている。

大型観光バスがたくさん駐車しているバス駐車場の奥にひっそりと建っているのが、多くの人がこの門が幕末の歴史を秘めたものだとは気付いていないようだ。

ちなみに現在は文教地区として多くの美術館が建つ岡崎エリアも、幕末の頃は広大な農地で、会津藩をはじめ諸藩が練兵場にしたともいわれている。

ここからは、丸太町通をさらに西へ。鴨川を渡り京都御苑方面に向かうが、途中「新島旧邸」に立ち寄ろう。

会津藩士と縁が深い新島襄の住まい「新島旧邸」

画像:新島旧邸(撮影:高野晃彰)

画像:新島(山本)八重 wiki.c

新島旧邸」は、会津藩砲術指南役・山本覚馬の義弟・新島襄が維新後に暮らした邸宅だ。
新島は熱心なキリスト教徒で、同志社大学の創始者として知られる。覚馬と意気投合し、その縁で覚馬の妹・八重と結婚した。

八重は、戊辰戦争の際、会津若松籠城戦で活躍し、大河ドラマの主人公になった女性。ここは、その八重が86歳で亡くなった場所でもある。

同邸の建築様式はコロニアルスタイルで東・南・西の3面にベランダをめぐらす。ただし内部には障子や襖、鎧戸など伝統的な和風建築技法が随所に見られる。明治初期の洋風建築として貴重な遺構だ。

さてここからは、寺町通を北へ。今出川通を左折し、御苑に沿って歩くと烏丸今出川の交差点に出る。この北側に、新島襄が設立した同志社大学のキャンパスが広がる。

実はこの場所は、江戸時代は薩摩藩藩邸だった。

山本覚馬が幽閉された二本松藩邸「薩摩藩邸跡」

画像:薩摩藩邸跡(撮影:高野晃彰)

同志社大学の西門前に、薩摩藩の藩邸であったことを示す石標と説明板がある。

1862(文久2)年9月、相国寺から土地を借り受け、新たに造営した藩邸で二本松邸と呼ばれ、幕末の京都における薩摩藩の重要な拠点となった。

画像:山本覚馬 wiki.c

先に訪ねた「新島旧邸」で触れた山本覚馬が、鳥羽伏見の戦いの直後に捕らえられ、ここに幽門されていた。
鳥羽伏見の戦いにおける、新政府軍の敗軍に対する扱いはひどいものだったが、薩摩藩内では覚馬の優秀さが知れ渡っており、丁重な処遇を受けたとされる。

覚馬は幽閉中に、後に京都近代化の指針として大きな影響を与えることになる建白書『管見』を提出した。
これを読んだ西郷隆盛小松帯刀ら薩摩首脳は、増々覚馬の才知に感服したという。

覚馬は、1870(明治3)年に京都府庁に出仕し、政治顧問として府政を指導。京都の近代化に大きな役割を果たした。

では次に、今出川通を渡り、八月十八日の政変・禁門の変の舞台となった京都御苑に向かおう。

先ずは「猿ヶ辻」を訪ねる。

幕末京都の大事件の舞台となった「京都御苑」

画像:蛤御門から見た京都御苑(撮影:高野晃彰)

京都御苑」には、明治になるまで天皇が住んだ「京都御所」を中心に、「京都大宮御所」「京都仙洞御所」や公家邸宅の遺構が残る。

現在は、緑豊かな約100ヘクタールにもおよぶ広大な敷地の中に、建築物が点在するが、江戸時代には京都御所を囲むように140以上の宮家・公家の邸宅が建ち並ぶ公家屋敷街が形成されていた。

しかし、明治維新を迎え、都が京都から東京へ移ると、それに伴い天皇・公家たちも東京へ移り住んでいった。

残された御所と公家屋敷は一時荒廃したが、明治天皇の意向もあり保存作業が行われ、御所を残しつつ、公家屋敷街の建物を取り払い、新たに国民公園「京都御苑」として生まれ変わった。

その後、大正天皇・昭和天皇の即位大礼は、「京都御所」と「京都御苑」を式典会場として執り行われるなど、現在も天皇家の御所として機能している。

「京後御苑」には、緑の木々に囲まれた庭園・史跡の他、レストラン・お土産のショップなどがあり、半日いても飽きないが、今回は会津藩ゆかりの場所に限定し「猿ヶ辻」→「宜秋門」→「蛤御門」→「建礼門」→「凝華洞跡」→「鷹司邸跡」→「九條邸跡」の順にめぐることとする。

画像:猿ヶ辻(撮影:高野晃彰)

猿ヶ辻」は、御所の北東隅にある辻で、鬼門を守る日吉神社の使者の猿を祀って守護神としている。

御所の築地塀が折れ曲がった部分の屋根裏に烏帽子をかぶり御幣をかついだ猿の姿が見られる。

この猿が夜になると付近をうろつき、いたずらをするため金網を張って閉じ込められたという伝説が残っている。

画像:屋根裏の猿像(撮影:高野晃彰)

1863(文久3)年7月、この辻の付近で尊王攘夷派の公家姉小路公知が、3人の刺客に襲われ殺害された。

猜疑の目を向けられた薩摩藩は、この事件をきっかけに京都政局から排除される傾向に陥り、これが討幕運動へと繋がっていった。

画像:宜秋門(撮影:高野晃彰)

宜秋門(ぎしゅうもん)」は、京都御所の西面正門で、大政奉還前まで、会津藩が警備を担当していた。

禁門の変の際には、後の15将軍・徳川(一橋)慶喜が、ここで指揮を執った。

慶喜は、この時まさに銃弾が飛び交う最前線で奮闘していた。

画像 : 徳川慶喜

しかし、そんな華々しい慶喜の姿は、その後の長州征伐・鳥羽伏見の戦いでは影を潜めることになる。

数万の幕兵を置き去りにして、大坂城から江戸に逃げ帰った慶喜。

この門の前に立つと、慶喜の真の姿について、つい思いを馳せてしまう幕末ファンも多いことだろう。

画像:蛤御門(撮影:高野晃彰)

蛤御門」は、京都御苑の外郭門の一つで正式名称は新在家御門という。

禁門の変では、押し寄せた長州藩と、御所を守る会津・桑名・薩摩各藩との激戦地となった。

画像:蛤御門に残る弾痕(撮影:高野晃彰)

戦闘は1日で終了し、敗れた長州藩は多大な犠牲を払い、京都から撤退した。

この付近からの出火で、一条から七条にいたる広い範囲が焼失。

そんな激戦を物語るように、門の柱にはいまも弾痕が残る。

画像:建礼門(撮影:高野晃彰)

建礼門」は、京都御所の南面正門。八月十八日の政変の折り、壬生浪士組のちの新選組に出動が命じられ、この門と仙洞御所の守備についた。

その時、蛤御門を守備していた会津藩兵との間でいざこざが生じ、芹沢鴨が、扇で会津兵の槍の穂先を扇いだというエピソードが残る。

この時から会津藩士たちには、芹沢の印象として、横暴さが焼き付いていたのかもしれない。

画像:凝華洞跡(撮影:高野晃彰)

凝華洞跡」は、江戸前期在位の後西天皇の仙洞御所があったところ。

禁門の変時、病を患っていた松平容保は、孝明天皇に配慮して、ここに仮本陣を敷いたという。

容保の生真面目さを物語る旧跡だ。

画像:鷹司邸跡(撮影:高野晃彰)

鷹司邸跡」は、禁門の変で長州軍の拠点の一つとなった。

当時の鷹司家当主は、水戸藩主徳川斉昭の義弟に当たる政通で、攘夷派の公家として有名だった。

戦況が不利になり長州藩士の久坂玄瑞・寺島忠三郎がここで自刃している。

画像:九條邸跡(撮影:高野晃彰)

九條邸跡」は、堺町御門の西側にある。

禁門の変では、隣接する鷹司邸に籠る長州勢に対して、会津藩は山本覚馬の指揮のもと、ここから大砲による砲撃を行ったとされる。今は九条池と、茶室拾翠亭が古の面影を伝えている。

「京都御苑」での移動と見学時間は、おおよそ1時間。もちろん、駆け足で回れば時間短縮が可能だが、ここは幕末史における重要事件の数々が起こった場所だけに、歴史散策ならば、ある程度時間をかけてめぐりたい。

東山の「金戒光明寺」をスタートして「京都御苑」に至る「会津藩の足跡を求める歴史散策」。そのフィニッシュの「京都守護職屋敷跡」の石碑が立つ、京都府庁はすぐそこだ。

度重なる増改築を経て完成した「京都守護職屋敷跡」

画像:京都守護職屋敷(撮影:高野晃彰)

京都守護職屋敷」は、実は一つではない。京都市中に幾つかの屋敷を構えていたが、ここは、1865(慶応元)年に完成した上屋敷にあたる。

今は、その跡地を示す石碑が、京都府庁の正門裏の右手にひっそりと立つのみだが、京都府庁と隣接する第二日赤病院を含む広大な規模を誇っていた。その広大な屋敷に、松平容保以下、多くの会津藩士たちが金戒光明寺から移ってきた。

そして、会津士魂のもと、国家のために命を懸けて懸命に働いた。しかし、彼らは大政奉還・鳥羽伏見の戦い・会津戦争と歴史の波に翻弄されながら、苦難の道を歩んでいくことになるのだ。

※参考文献
高野晃彰編・京都歴史文化研究会著『京都歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊 2022年2月

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