編集長日記 マニラ新聞

「9月からじゃかるた新聞でお世話になっています。会いませんか?」という連絡を受け、12年ぶりにSさんと会った。マニラ新聞のキャップで、私に取材の基本を教えてくれたのがSさんだった。

マニラ新聞はマカティ通りとヒルプヤット通りの交差するパシフィック・スター・ビルディングにあった。大きな青い星が付いた白いビルは、空の上からでも、マカティを歩いていても、よく目立った。白いバロンタガログ姿の社主Nさんが率いる編集部にいたのは、非常に優秀な女性記者のHさん、NGO出身のYさん、そして現場を仕切るキャップのSさんだった。

最初に書いたのは忘れもしない、「日本留学フェア」の原稿だ。道でタクシーを拾うだけでも十分に緊張して会場のホテルへ行き、手当たり次第に話を聞いて、ワープロで手探りの原稿を書いた。Sさんに渡すと、原稿は即座に「キッタ、ハッタ」されて、紙面の隅に載った。ベタ記事ではなく、2段ぐらいだったか。初めて印刷された自分の記事を目にして、現実ではないような、不思議な気持ちだったのを覚えている。

マニラ新聞は、ほんわかしたコミュニティー紙のじゃかるた新聞とは違って、がっつり社会派。日本人が殺害される事件も頻繁に起きた。私が入社して間もない時だったと思うが、セブ島で日本人男性が殺害される事件が起き、保険金殺人という疑いが持たれていた。Sさんも現地で取材をしていたが、真相はなかなかわからない。ある時、Sさんから電話があり、「池田さん、魚、好き?」。「は? 好き、ですけど……」。「霊体離脱させて行きたい所へ行かせられる、っていう人がおるんや。肉より魚が好きな女性がいいんやって。殺人事件が起きた現場に行って、どういう状況やったか見て来てくれん?」と早口で言われた。Sさんは恐らく、フィリピンあるある(インドネシアあるある、でもあるが)の超能力を本気で信じていたわけではなく、「とりあえず何でも試したい」という気持ちだったのだと思う。しかし、「どういう職場だ……」と呆然としたのは事実だ。

ほかにも、Hさんが映画館で映画鑑賞中に足元に置いていたカバンをすられ、「邦人女性、置き引き被害」と、当然のように自分で原稿を書いていたのも、なかなかの衝撃だった。さらに、私がジャカルタへ行ってからの事件だったが、Sさんは会社から帰る途中に銃撃され、「邦人記者、銃撃される」というトップニュースをマニラ新聞に書いていた。撃ち込まれた銃弾は車の座席の背で止まっていたとか。

日本人男性が入院中の病院から飛び降り自殺した時、現場へ行って調べるよう、指示された。「窓が自分で飛び降りられる高さかどうか見てきて。英語で遺書を書いとるんやけど、遺書を書いたサインペンが現場にあるか見てきて。それと、遺書が本人の筆跡であるか、確認してきて」。現場は立ち入り禁止のポリス・ラインが張られていたが、病院の担当者に頼んで部屋に入れてもらった。窓は簡単に乗り越えられそうな高さで、サインペンも発見した。問題は「遺書が本人の筆跡かどうか」。ふと思い付いて入院時に書く書類を見せてもらうと、本人が記入して署名しており、遺書と同じ筆跡だった。署名をノートにトレースして持ち帰った。取材とは、ここまで徹底して調べるものだと知った。

もう一つ忘れられないのは、AAAアジア野球選手権大会の取材。マニラで開催された時、「高校野球取材は新人の仕事なんやで」と取材を任された。日本は韓国、台湾に敗れて3位に終わり、Sさんは「日本、継投実らず」といった見出しをつけた。私はすっかり日本チームに肩入れしており、「その見出しはちょっと……」と異議を唱えた。しかし、「じゃあ、継投は実ったんか? 実ってないんやろ」と、あっという間に論破されてすごすご引き下がると、Sさんはあきれたように、「おまえなぁ、自分はこの仕事で10年、食ってるの。文句つけるなら、差し違えるぐらいの覚悟で言わんかい」。この言葉も「(職場内に限らず)プロに意見する時には相応の覚悟があるべき」と身に染みた。

AAAの取材に来た日本の大手メディアの記者たちは日本チームの試合だけを取材していたが、私は几帳面に全試合を見て、スコアブックをつけていた。フィリピン対モンゴル、インドネシア対フィリピンといった、普段は見られない対戦は面白かった。フィリピンはまだ強い方だったが、インドネシアは弱かったし、モンゴルは最弱だった。ピッチャーは1人だけ。バカバカ打たれて、バスケットボールか、というぐらいの点数が入れられていた。試合結果以外の記事を書くという発想がなく、ただ「面白いな」と思いながら見ていただけなのが悔やまれる。各国のお国柄が出ていたし、モンゴル・チーム密着など、絶好のネタだったのに、だ。

とにかく仕事はできず、日々、怒られまくっていた。ある日本人NGOの総会の結果という、大したネタではないが、自分なりに一生懸命に書いた原稿を提出し、帰り際に出口近くにあった本棚で本を見ていたところ、「こんなしょうもない原稿」とSさんが言っているのが聞こえた。「その原稿、没にして構いませんので」と言って帰った。家に帰ってから、「3年は辞めないで頑張ろうと思っていたけど、3年、持たなかったな。これからどうしよう」と、ぼんやりしていた。そこへ、「新宿ラーメン」という日本食屋のごはんを持ってHさんが突然、訪ねて来てくれた。食べながらボツボツと、仕事以外の話をした。そうしているうちに、思い詰めた気持ちが薄れていった。Hさんが来てくれたのは実は、Sさんが「ごはんを買って、持って行って」と頼んだ、のことだった。

日本の祖母が危篤になった時、正月休みのローテーションを直ちに代わってくれ、「すぐに帰り」と言ってくれたのはSさんだった。祖母は私が帰国した翌朝、亡くなった。

マニラ時代は苦しく、ひたすら「3年は頑張ろう」と思い続けていたようなものだった。時々、「この一瞬ですべてが報われる」と思えるような光がかっと差すこともあった。このため、なんとか持ちこたえることができたようなものだった。記者が天職、と感じられるようになったのは、マニラからジャカルタに来てからだ。しかし、マニラ新聞での厳しさがあったからこそ、今の自分があると思う。マニラ新聞は私の原点だし、Sさんには感謝しかない。

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