編集長日記 ジャカルタで、バベットの晩餐会

午後7時。店は暗く、閉まっているように見えるが、入口に灯りがともり、いつもは人気のない奥のレストランだけが明るい。

週3日(木〜土)のみ、ディナーのみ、料理の選択は3コースか7コースのみ、予約のみ、というレストラン。

予約すると、長い注意事項がSMSで送られて来た。

「ご予約ありがとうございます。○月○日午後7時でご予約承りました。予約時間から15分を過ぎると予約はキャンセルされます。食事時間は3時間ぐらいをご予定ください。12歳以上のみ。ドレスコードはスマート&エレガント。食事アレルギーがあれば事前にお知らせください」

「まずは遅れないように」と、行く前から緊張を強いられる。この日の客は、われわれ2人とインドネシア人4人の2組だった。インドネシア人のグループは午後8時からの予約だったので、最初の1時間はわれわれしかいない貸し切り状態。3人のウェイター、ウェイトレスがつく。

レストランは思いの外広いが、白い壁にはいさぎよく何もない。室内にあるのは、きちっと白いクロスがかかりグラスの並んだテーブル、茶色い革張りの椅子だけで、余分な物は何もない。非常にストイックな雰囲気だ。

まずはアミューズ。小さな芸術品。ポテトグラタンのプロシュート巻き、トリュフ載せ。続いて、カリカリのガレットにサーモンを載せて緑のディルと黄色い何かを散らしたもの。

魚はサーモンのカリフラワー添え。レアに近いサーモンに、たっぷりのオリーブオイル。オリーブオイルで食べるサーモンは甘い。しかし、これだけでは物足りないところを、かりかりに焼いたカリフラワーに塩味とカレー味を強く効かせ、どことなくインド風味だ。パクチーとマスタードシードで、さらに多様な味わいになる。全部が同じ味で一体となっているのではなく、1つひとつがバラバラで、口の中で混じり合うと、ちょうど良い。

「シェフからのサービスです」と、甘エビを添えた白いスープが出た。非常に抑えた味付けで、アーモンドのコクが口いっぱいに広がる。スープの実となっている、輪切りのブドウがほのかに甘い。

メインの肉は、皿に蓋をして運ばれて来て、厨房からシェフが出て来た。初めて会った時はにこりともしないピリピリ感が怖くて、「ヨーロッパの料理にはこれぐらいの厳しさが必要なんだな」と納得していたのだが、店に通ううちに、笑顔で「ハーイ」と手を振ってくれるまでになった。今日はニコリともしない。愛想がないのではなく、真剣なのだ。

蓋を開けると、彩りの美しさに嘆声が出た。肉はアンガス牛とラムの2種類。肉詰めの大きなレッド・チリ、ジャガ芋、ニンニク、インゲン、ナスがたっぷりと付け合わされている。シェフが料理の説明をして、たっぷりのソースを掛け回す。ラムはほろほろと軟らかく、レアのアンガス牛はしっかりした歯ごたえ。肉の焼き加減、付け合わせの火の通し方、すべてが「ぴったり」で、デザインの世界で言うと「ミリ単位」の調整がされている。

デザートだけは少し食べ慣れた味で、ようやくほっと息をついた。ライスプディングにオレンジ、カリカリのガレット、チョコレートムースを載せてある。オレンジを小さく切った飾りが周りを取り囲んでいて、手をつないだ妖精が輪になっているようだ。数えてみると、妖精は21人いた。

「3コースに3時間はかからないだろう」と思っていたのだが、1品ずつゆっくり味わい、あれこれ話をし、コーヒーを飲むころには、3時間が経過していた。

どの皿も繊細で美しい。食べてみるまでわからない、意外な味。「よくこんな組み合わせを思い付くものだ」と驚く。これぞクリエイション。これぞ料理。

どれもが渾身の作なので、シェフとの「対決」のようになってしまって、少し疲れるかもしれない。私には7コースはまだ無理そうだ。

これほど料理に集中できる場所はない。余分な物は何もない。

ぜいたくながら、ここのキッシュやタルトを時々、買っている。一度、非常に疲れていた時に、シェフが「Very very Italian」とうれしそうな顔で薦めてくれた、チーズとトマトとルッコラを挟んだクロワッサンのサンドイッチと、「新作」だと言うニシンのキッシュを買った。まったく食欲はなかったのだが、家に帰って食べると、すべてのことが頭から消えた。疲れも、モヤモヤした気持ちも、ぬぐい去られたようになくなり、ただ「おいしい」ということだけが脳内にあった。この時、本当においしい物にはここまでの力がある、ということを知った。ほかのすべてをねじ伏せてしまうぐらいの、圧倒的な力なのだ。

イサク・ディネーセンの『バベットの晩餐会』という本が好きだ。バベットという女性が全身全霊をかけて作ったフランス料理のディナーが、「おいしい料理は魂を危険にさらす。味わってはいけない」と考えていた禁欲的な人々までも、変えてしまう。

この本の最後に出て来る、「世界中で芸術家の心の叫びが聞こえる。私に最高の仕事をさせてくれ」という言葉が好きだ。

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