町田そのこ×小野花梨『52ヘルツのクジラたち』対談 「生きている限り、人はみんな大なり小なり孤独を抱えている」

2021年に本屋大賞を受賞した町田そのこの小説を映画化したヒューマンドラマ『52ヘルツのクジラたち』が、2024年3月1日より全国映画館で公開される。心に傷を負い、東京から海辺の街の一軒家へ引っ越してきた主人公・三島貴瑚を杉咲花が演じ、貴瑚を救おうとするアンさんこと岡田安吾を志尊淳、貴瑚の親友・牧岡美晴を小野花梨、「ムシ」と呼ばれる少年を映画初出演の桑名桃李が演じる。

本作で重要な役どころを演じる小野花梨は、読書家としても知られており、かねてより町田そのこ作品の愛読者でもあった。また、杉咲花とは実際に長年の友人であり、『52ヘルツのクジラたち』をおすすめしていたそうだ。映画の公開に向けて、町田そのこと小野花梨の対談をお届けする。(編集部)

■小野花梨「いかに素晴らしい作品かを布教したい、と切に願った」

小野:今日は本当に、夢みたいで。町田先生の小説は『チョコレートグラミー』を初めて読んで以来ずっと好きなんですけど、『52ヘルツのクジラたち』を読んだときは、もう、笑っちゃうくらい泣いてしまったんです。自分の好みを人に押しつけるのが苦手なので、ふだんは好きな小説を誰かにすすめることはなく、自分のなかだけで育てていくタイプなんです。でも『52ヘルツのクジラたち』は、まず事務所の社長に送りつけ、長年の友人である杉咲花さんにも送りつけ、みんなに読んでもらいたい、いかに素晴らしい作品かを布教したい、と切に願った初めての小説でした。

町田:こちらこそ、そんなことを言っていただけるなんて夢みたい。ありがとうございます。

小野:だから、杉咲花さんが主演で映画化されるって知ったときは、びっくりしたなんてものじゃなかったというか……。思っていることは言葉にしたほうがいいんだ、と味をしめちゃって、今は欲しいものもやりたいことも全部口に出すようになっています(笑)。ただ、私は原作が好きすぎるあまり、自分が出演しておきながら映画化で細部を変えざるを得なかったことが気になってはいて。「あのエピソードがいいのに!」「あのセリフは入れてほしかった!」って思っちゃうところもあるんですけど。尺の都合上、そして表現媒体が違う以上、しかたがないことだとわかってはいるんですが、今作に関してはファンとしての想いが強く出すぎちゃう。

町田:映画、すごくよかったですよ。私は小説を書くとき、登場人物の声や容姿について、具体的な肉づけをしないんですよ。誰かを想定しての当て書きも一切したことがなくて、自分のなかでうっすら、こういう感じかなってイメージするくらい。だから、初めて撮影の見学に行ったとき、私が書いたはずの彼らが、濃い輪郭をもって立体的に生きているということに、感動してしまって。小野さんの演じた美晴についても、こんなふうに貴瑚のこと呼ぶんだね、こんな表情で見るんだね、と物語の正解を見せてもらっている気がしました。

小野:嬉しい……ですけど、不思議でもあります。登場人物をゼロから生み出した原作者の方にこそ、絶対的な正解があると思っていたので。こんなの美晴じゃないって思われたらどうしよう、ってずっと怖かったんです。現場にいらっしゃるって聞いたときも、一ファンとしてお会いできるのが嬉しい反面、「マジか、どうしよう」ってびくびくしていました。

町田:外見のイメージがないとは言わないし、書きながらそのつど表情も浮かぶんですけど、ふわふわしていて確固たる実体があるわけではないんですよね。それよりも心の内側にあるひだを一粒つでも多く書きたい、という気持ちが強いからかもしれません。逆に言えば、しゃべりかたの癖とか、肉体性みたいなものをどこか置き去りにしていた部分もあったのかな、と思うので、映画を通じて登場人物たちに改めて触れたとき、「もっとここも書けたらよかったんじゃないか」「私にはまだまだ書ききれていないところがあったんじゃないか」と思わされました。もちろん、私は100%の力を出しきって書いたつもりですが、映画になることで、150%、200%とパーセンテージがぶちあがってくれたな、と。

小野:原作を削いだはずなのに、書き足りないものがあったと感じるなんて……不思議ですね。でも、杉咲花さんという役者が放つエネルギーであったり、志尊淳さんという役者が内包する優しさであったり、計算しても出すことのできない力が原作に加わって新しい何かを生んでくれたのかな、と思います。

町田:小野さんはじめ、演者の皆さんが私以上に深く登場人物に向きあい、掘り下げてくれたおかげだと思っていますよ。

小野:嬉しいです……。私が演じた美晴は、主人公である貴瑚の友達ですけど、ぶっきらぼうに見えて実はものすごく繊細で優しい人だと思ったんですね。人間って、そういうところがあるじゃないですか。口調や態度が荒い人ほど、実は弱さをひた隠しにしている、傷つかないように防御している、とか。そういう矛盾をあわせもっているのが人間らしさだと思うので、そこを大事にしたいと思っていました。居酒屋のシーンでも、貴瑚を案じているときほど「とりあえずビール!」って声が大きくなる、みたいな。勝手な印象なんですけど、美晴の繊細な優しさは町田先生に通じるところがあるのかな、って。

町田:あらっ。やだ嬉しい!

小野:お酒を飲むのが好きで、お会いするとざっくばらんとした雰囲気があるんですけど、人の感情を受信するアンテナみたいなものは、きっと誰より敏感で、まわりを見ていらっしゃるんだろうな、と。

町田:まわりの人たちみんなに聞かせたい(笑)。美晴のシーンでは、行方知れずになっていた貴瑚と再会したとき、怒りをしっかり表明してから抱き着くところがよかったです。大好きだからこそ手放しには喜べない、心配と苛立ちとが、あの一瞬にしっかり込められていて。アンさんたちと居酒屋では集まっているところとか、観たかった場面がいくつも現実になっているのが嬉しかったなあ。

小野:美晴は、貴瑚やアンさんたちのように、どん底で苦しんでいる姿が描かれているわけじゃない。でも……誰にも届かない声で叫び続ける〈52ヘルツのクジラ〉の孤独は、家庭環境が苦しいから、人とは違う何かを抱えているから、というだけでは生まれるものじゃないと思うんです。生きている限り、人はみんな大なり小なり孤独を抱えているし、個人差はあれど繊細な生き物であることに変わりはない。美晴も〈52ヘルツのクジラ〉の一人だし、みんなしんどいからこそ、助け合って生きていこうっていうメッセージを原作から感じました。だからみんなにおすすめしたくなったんですよね。性別や置かれている状況にかかわらず、誰しもに読んでほしい、って。

町田:ありがとうございます。私も、全員が〈52ヘルツのクジラ〉だと思っているんですよ。だから、目の前にいる人が、どんなに明るく笑って社会に溶け込んでいるように見えても、実は声なき声を発し続けているのかもしれない、と想像する力を持たねばならないのだと。美晴だって、貴瑚とアンさんという大事な友達二人を助けることができず、その後悔に苛まれ続けていたでしょう。「そばにいたのに何も気がつかなかったの?」って言う人もいるだろうし、彼女自身がそう思って自分を許せないでいるからこそ、じゃあ次は何ができるか、最善を尽くすためにどうするべきかを考えて、改めて貴瑚に手を差し伸べることができたのだと。

■町田「トライ&エラーのくりかえしでしか、人は他者に寄り添うことはできない」

小野:この人は大変な状況にあるから助けなくてはいけない、ではなくて、目の前にいる大事な人が苦しんでいる、それを解消するためにはどうすればいいんだろう、と考えることが必要なんだろうなあ、と思います。

町田:いろんな状況にある方のことを、本を読むなどして知ることももちろん大事ですし、言葉を知ることで対応できることはたくさんあります。でも、まずは向き合いたいと思っている人にかけるべき言葉、とるべき態度を、一歩か二歩ひいて考え、タイミングをはかりながらあらわしていく、というのが大事なんですよね。私自身、言い方を間違えたなとか、よかれと思ってしたことなのに誤解されちゃったなとか、失敗することをはたくさんありますし、反省と後悔の日々をくりかえしていますけど、だからこそ、次に同じ状況が訪れたときにはどうするべきか、シミュレーションすることができる。自分のネガティブな部分すら物語に反映させることで、改善の一途をはかることができる。トライ&エラーのくりかえしでしか、人は他者に寄り添うことはできないんじゃないのかなあ、と。

小野:だからなのかな。町田先生の小説は、本当に、私の心にいつもぴったり寄り添ってくれて……。どの作品も、母親の描き方がとくに印象に残っているんですよ。というのも私は、家族愛とか母性とか、どうしても美しく描かれがちなものに対して昔から懐疑的なんです。母親や家族関係に葛藤を抱えていた時期も長かったから、美しすぎる物語に触れると「物語としては素敵だけど現実はこうもいかないよなぁ」と落ち込んでしまうところがあったんです。でも町田先生の小説は、「そんなにいいものばかりじゃない」というみんなが見たくないところも描きながら、そのうえで希望や愛情のかけらを与えてくれるような描き方がされていて、心に刺さるんです。町田先生自身も、そういうご経験がおありだから、親子関係を描くことが多いんでしょうか。

町田:というよりも、私自身が母親になったからだと思います。最初の子どもを産んですぐ、十数キロしか離れていない隣町でドラム缶に赤ちゃんが捨てられていたというニュースが報じられたんですね。年が明けてすぐたばかりで、雪が降るほど寒い日で、当然、その赤ちゃんは亡くなっていた。対して私は、産んだ子どものあまりの小ささに、並んで寝ていても寝がえりでつぶしてしまうんじゃないかと不安になるほどで。なぜか突然死症候群について調べ始めてしまい、鼻の下に指をあてて呼吸を確認しては生きていることを確認する、みたいな日々だったんです。そんな、懸命な想いで見守られている我が子と、ドラム缶の赤ん坊の命に、いったいなんの差があるんだろうと思ったことが、『52ヘルツのクジラたち』を書いたきっかけでした。

小野:そんなことが……。

町田:今も娘が成長するたび、あのドラム缶で亡くなっていた赤ちゃんを思い出してしまう。母親ってなんだろう、私はどういう母親になりたいんだろう、と考えずにはいられないんですよね。捨てなきゃいいのかといえばそうではなく、愛情過多によって子どもを追い詰める親もいるわけじゃないですか。毒を孕んではいるけれど、基本的にはいい親だという人もいる。実際、私は母親と良好な関係を築いていますけど、何一つ屈託がないかというと、そうではない。私よりも閉鎖的な考えで、女の子は家から出ちゃいけない、たいした学歴はいらないんだと言いつつ、いつでも離婚できるよう手に職をつけておきなさいよ、なんて矛盾したことを言う。一生懸命書いている小説を「あんたみたいな子が書くものが本当に売れるの? 家庭を優先すべきじゃないの?」と言われていた時期もありました。

――毒親というほどでひどくはないし、基本的に関係は良好だけど、傷つけられたことが今でも癒えない、という人は少なくない気がします。

町田:そうなんですよね。小さくても何度も刺されているうち、じわじわ蝕まれていくものがある。ただ、北九州に住んでいる私が仕事のため東京に来られるのは、母が子どもたちの世話をしてくれているからなんです。感謝していますし、世間から見て「いいお母さん」はどちらかといえば、子どもをほったらかして東京に来る私より、家庭を第一に考える私の母のほうかもしれない。娘としての自分の感情と、娘から見た母としての私とをいったりきたり考えながら、その関係について考え続けていることは、小説家としての一つのテーマになっていますし、物語の主軸でなくとも、今後も作品の中には滲み出るんじゃないかと思います。

小野:幼少期からの環境と経験って、人格形成にものすごく大きな影響を及ぼすじゃないですか。大人になった今、母に対する気持ちが昔よりは整理できた今も、「なんで私はこういう考え方なんだろう?」などと自己を見つめるたびに、原点はそこにあるんだ、ということを突きつけられる。そこから逃れられずにいる自分のことも、いやになってしまう。でも、町田先生の小説を読むと、そう言う自分が救われたような気持ちになれるんです。

町田:それを聞いて、ホッとしました。私なりに考え抜いて書いていることが、ちゃんと誰かの心に届いているんだ、と知れることが、作家としても励みになります。『52ヘルツのクジラたち』で私が書きたかったのは、最初は集団のなかにある孤独だったと思うんです。でも、教室のまんなかで笑っている人は孤独じゃないのかといえば、そうじゃない。みんなと同じヘルツで会話しているように見えて、実は誰にも届かないとあきらめて、想いを胸に秘めている人も、きっといる。その苦しみに光が差すよう、想像する力をもちたい。改めて、そう思います。

(文=立花もも)

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