年金世代がお金はあるのに「人生をやり直したい」理由

<前編のあらすじ>

宮崎明日香(39歳)のパートタイマーの管理責任者の小笠原大地(36歳)は何かトラブルを抱えているようだった。ある時、2日連続で会社を休み、どうやら体調を大きく崩したらしいという話を聞いて、明日香が心配して玉枝(74歳)とともに小笠原を訪ねると……。

人生に必要な“3大費用”

小笠原の様子を見て、日々の生活についての話を聞きながら、明日香と玉枝は小笠原が体調を崩した理由がすぐにわかった。小笠原は、この数日間、飲み物を飲む以外は、食事らしい食事を採らずに生活していたのだ。聞くと、「食事をしていると、マーケットの動きの変化を見逃してしまうから」なのだという。米国の重要な経済指標の発表が続いた期間は、そのデータを把握しないと気が休まらなかったということで、睡眠時間もかなり削っていた。自分では立ち上がれないほどに衰弱していたため、明日香と玉枝で何とか小笠原を担ぎ出して、明日香の運転で近くの病院に連れて行った。すぐに点滴による栄養補給が始まり、体力がある程度回復するまでは入院することになった。

小笠原が病院のベッドで眠りについたため、明日香と玉枝はいったん帰ることにした。その帰り道で、玉枝は、「最近は資産運用をする人たちの間でFIREがはやっているようだけれど、お金で全てを解決できるような考え方には賛成できない」と話し出した。玉枝は、続けて、「人生でお金がかかることは3つくらいしかないといわれてきた。住宅の取得、子育て、そして、老後の資金だ。そして、この3つは、それぞれどの程度負担するのか、自分で決められる。もっとも今では、結婚しない人、子どもを作らない人など、いろんな人生があるから、必ずしも人生の3大出費という話ではなくなっているけど。

たとえば、3000万円の住宅で満足できる人もいれば、住居に1億円をかける人もいる。それは人それぞれの価値観だから、何が正しいということではない。子供にもお金のかけ方に限界はない。習い事にしても、スポーツにしても、学業でも留学させるとかいくらでもお金はかけられる。FPとかは子育てに必要な資金は1人当たり3000万円などというけれど、実際には子供の夢や希望にどこまで付き合うかは、その人の判断による。人生は平均値や統計値では測れないよ。老後の資金だって、公的年金で足りない分は働いて補うと考える人には準備する必要もないといえるかもしれない。だから、FIREでいうところのいくらになったら仕事を早期リタイアするのかという金額は、本来は、簡単に決められるものじゃない。それが、SNSなどでは、40代でFIREできましたとか、株式投資で何億円稼ぎましたというような話があふれかえっている。いくらの資産があろうと、その金額に興味はないけど、わたしはその人たちに聞きたいね。それで、あなたは幸せなの? って」と言った。

資産形成は人生の目的になり得るか?

玉枝がそんな風に思うのは、「60代、70代の人たちの多くは、若い頃に仕事ばかりしているんじゃなくて、もっと好きなことに時間を使っていればよかったということをよく言う。バブル期の証券会社は、それこそ寝る間も惜しんで仕事して、家族サービスも子供の教育も顧みずにひたすら仕事に打ち込むような人ばかりだった。たしかに、それで高い給料はもらえたし、出世すれば退職の頃にはひと財産といえる退職手当があった。お金のことだけいえば、FIREでいうところの経済的な自立はできているのだけど、ほとんどの人が後悔し、人生をやり直したいと言っている。年を取れば、体力が衰えるからお金があったって旅行にもいけない。頻尿になっていつでもトイレを探してしまうようになる人もいる。緑内障で視野が狭くなると景色を楽しむこともできないし、本を読むのさえ苦労するようになるんだ。だから、早期にリタイアするということなのかもしれないけど、資産家の子供ででもないと若いうちにまとまった資金を作るのは難しい。いちかばちかのばくちじゃなくて、一から資産を作っていくには、それなりの時間がかかるからね」という。

昭和を生き抜いた玉枝の言葉は、時に現代の人には厳しくなる。「お金をためたり、運用したりすることは後でもできるけど、その人の人生は一度きり、その人の身体も1つしかなくて時間とともに衰えていくものなんだ。自分の人生としっかり向き合った後ででも資産形成はできるよ。あなたもそうだよ。子育てのために会社を辞めて、それからは今のパート職だけど、あなたの人生は子育てだけのためにあるのじゃないよ。小笠原さんのことに、何かとかかわりを持ってしまうのも、自分自身の人生を本当に生きているという実感がないからなんじゃないの?」と玉枝は、明日香に語り掛けていた。

人生を自分の手に取り戻す

明日香は、「小笠原さんは、これからどうすればいいと思う? お母さんが自分で納得のいく運用商品を探した方がいいというようなことを言ったから、それを実行して頑張っていたんだよ。ちょっとやり過ぎだったとは思うけど」というと、玉枝は、「そうだねぇ」としばし考えた。そして、「うん、ちょっと考えがあるから、彼が退院したら、また会いに行こう」と言った。

その後、玉枝が小笠原に話したのは、「それほど運用業務に全力で取り組めるのなら、資産運用を本業にすることを考えたら」ということだった。玉枝の知り合いに人材コンサルタントの人がいるので紹介するという。「寝食も忘れるほどに没頭できるというのは、この業務に非常に強い関心があるということじゃないかな。欧米の運用会社では、ポートフォリオ・マネージャーやファンド・マネージャーが自らの運用するファンドに投資して大きな資産を作っている事例がたくさんある。資産運用を仕事としてやってみる気はない? 30代半ばの転職には、いろいろと大変なこともあると思うけど、やりたいことと日々の仕事の内容が一致した方が良くはないかな」と問いかけていた。小笠原は、資産運用を仕事にするという発想はなかったので、少し驚いていたが、「真剣に考えてみる」と答えていた。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

風間 浩/ライター/記者

かつて、兜倶楽部等の金融記者クラブに所属し、日本のバブルとバブルの崩壊、銀行窓販の開始(日本版金融ビッグバン)など金融市場と金融機関を取材してきた一介の記者。 1980年代から現在に至るまで約40年にわたって金融市場の変化とともに国内金融機関や金融サービスの変化を取材し続けている。

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