元日になくしたお年玉。崩れた家でヒーローが見つけてくれた【能登半島地震】

「やったー!!」「あった、あった!」「見つかった!」

能登半島地震で激しい被害にあった石川県珠洲市。崩落した家屋に細い隙間から体をねじ入れ、泥だらけになって写真や手紙など家主の「大切なもの」を取り出していたボランティアたちから、歓声が上がった。

手にしていたのは、小さな封筒。お年玉袋だった。

見つかったお年玉袋を受け取る畠田和美さん

「お年玉が出てこんかなぁ・・・」

ボランティアは、1月3日から石川県珠洲市で活動を続ける、技術系NPO「DRT JAPAN」。

重機やチェーンソーなど、さまざまな技術に長けた人たちが、仕事の休みを使って能登へ来て、支援を続けている。

専門性の高さから「技術系」と呼ばれ、崩れた家屋や被災車両の撤去、道路の啓開にあたるが、すべての活動のもとにあるのは、被災者に寄り添い、生活の再建を願う気持ちだ。

被災地域を回り、住民のニーズを丁寧に汲み取っていく。

「自宅から何か取り出したいものはないですか?」。そう尋ねたときに、畠田良さん(44)、和美さん(39)の長女、苺香さん(17)が遠慮がちに「お年玉が出てこんかなぁ…」と言ったのも、聞き逃さなかった。

崩れた家から取り出したぬいぐるみ

9人家族、ビニールハウスで暮らす

畠田さんたちは、地震のあった元日の夜から2カ月、自宅敷地内のビニールハウスで暮らしている。

地震のとき、和美さんは三女の鈴穂さん(11)と体調を崩し、自宅で休んでいた。強い揺れに、2人でコタツの下に潜り、そのまま身動きが取れなくなった。

揺れが収まり「よいしょ」と机を押し上げようとしたが、びくともしない。足が挟まれ、余震のたびに、何かがのしかかってくる。自分たちを探す声がするが、返事をしても、こちらの声が届かない。

着信で灯った携帯電話のライトに父の豊作さん(79)が気づき、近所の人の手を借りて、ようやく助け出された。

外に出て、身を隠したコタツがペシャンコに潰れた家の下敷きになっていたことを知った。

畠田和美さん(中央)と三女の鈴穂さん(左)が救出された場所

「頑張ろう」と「絶望」は紙一重

一方、苺香さんは、珠洲市内の親類宅にいた。「お母さんたちが家から出られない」。そう電話で聞いて、良さんや弟、妹たちと、道をふさぐ倒木を乗り越えて、必死で自宅に戻った。

無事に家族が揃い、全壊した自宅から出せた冷凍ポテトをかじって、夜を明かした。

その日から少しずつ、貴重品や生活必需品を取り出して、夫婦と子ども5人、和美さんの両親の9人で、ビニールハウスで生活を続けている。

一家は米づくりとメロン、小豆栽培で生計を立ててきた。高齢化で廃業していくコメ農家たちに後を託され、畠田さん家族が耕す田んぼは13ヘクタールあるが、地震で溜池にも亀裂が入ったため、現状では水を引けず、米づくりの先行きは見えない。

「これからどうしようか、ぐるぐる考えるけど答えが出ない。頑張ろう、って思うけど、そういう気持ちは、絶望と紙一重にあった」と和美さん。

DRT JAPANと出会ったのは、そんなときだった。

「子どもが野口健さんの『寝袋支援』を見つけて、申し込んだんです。そしたら、寝袋を届けに来てくれた人たちが(DRTに)繋いでくれて。あっという間に、納屋から農具を出してくれた」。

メンバーがその後にとりかかったのが、子どもたちのオモチャや思い出の品を取り出すこと、そしてお年玉探しだった。「子どもにとっての1万円は、大人にとっての1千万円ほどの価値がある」。そう言って、懸命に探し出してくれた。

見つかったお年玉

自分たちも、やればできる

「見つけてくれるなんて、すごいヒーロー。諦めない気持ちって大事だなって思った」と苺香さん。和美さんも言う。「もう、本当に。絶対に無理だろう、って諦めていたんです。でも見つけてくれたことで、次は自分たちも、って、やる気が出てきた。『農業をやめてもいい』と言っていたじいちゃんも、『おらたちの分だけでも、今年つくろうかな』と変わった。家族全員、すごく力をもらいました」

この日、お年玉を探したのは、休日を使ってボランティアに集まった消防士たちだった。崩れた真っ暗な家屋内で身を屈め、材木などの障害物を道具で切りながら、数時間かけて見つけ出した。

普段は山形県の置賜広域行政事務組合消防本部で勤務する我妻清和さんは「DRTでやっているのは、被災した人たちが立ち上がるためのお手伝い。負担や心配事を減らすことで前を向けるように、と活動しているので、そうした声は、自分たちの力にもなります」と笑う。

お年玉を見つけた我妻清和さん(左)と、畠田苺香さん(右)、良さん(中央)

いま必要なことは何か

1月3日に能登入りし、勤務の合間を縫って、2月下旬から珠洲市で4度目の支援にあたっている。3日に避難所を回ったときには、極寒の中でパンを食べている姿を見て「きっと温かいものが食いてぇよなぁ」とメンバーで話し合い、初めて炊き出しを行った。被災した人たちが自分たちの力で何かをしたり、コミュニケーションを取り合ったりするきっかけになれば、と避難所の人たちと一緒に食事を作り、そうした中で、困りごとを拾い集めていった。

「一緒に大根を切りながら『家の鍵が見つからない』『金庫を出したい』って聞いたら、『じゃあ俺、今から行ってくる』って応えて、すぐ取り出しにかかりました」。

畠田さん家族と笑顔で話す我妻清和さん(左)

スピーディーで頼れる人たちがいる、ということが、活動する地域内で次第に広がっていった。

我妻さんは言う。「消防の仕事は、救助まで。だから自分は、助かった人たちがその後どうなっていくのか、ということは、1年半前にDRTに関わるようになって、初めて知りました。復興の過程はすごく大事で、災害関連死を防ぐことにもつながる。被災した人たちが必要としていることはさまざまです。だから、いろんな人がそれぞれの技術を持ち寄って、能登に関わってくれたら」

(取材・文=川村 直子)

埋もれた車を出すため、積み上がったガレキを取り除く消防士たち

子どもたちが探していたゲーム機を見つけ、家族に伝える我妻清和さん

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