息子を殺された貧しい母と金持ち加害家族の奇妙な交流描く映画『FEAST -狂宴-』監督に聞く“ご馳走”の意味と“赦し”の心理

『FEAST -狂宴-』© 2022 HONG KONG PICTURES HEAVEN CULTURE & MEDIA COMPANY LIMITED. All RIGHTS RESERVED.

“怨む”も“怨まれる”も負の蓄積に他ならないから、絶対的に良いモノではない。しかし、人は感情で生きている。故に負の感情に振り回されてしまい、結局、誰も幸せにならない結果を生むことが多々ある。映画『FEAST -狂宴-』は、怨みや憎しみとどう向き合うべきなのか? を交通事故の加害者と被害者の奇妙な関係を通して描く。

愛する息子を殺された母、加害者は富豪一家

裕福なトゥアソン家の息子ラファエルが起こしたよそ見運転による事故。救急車を呼ぼうとするラファエルだったが、父アルフレッドが引き留める。なんと二人は被害者を放置し立ち去ってしまうのだ。しかし、警察の捜査によりアッサリと轢き逃げ犯として逮捕……されたのは父アルフレッドのみ。息子の罪を庇ったのだ。

良心に苛まれるトゥアソン家の人々は、被害者の妻・ニタに謝罪をするが受け入れてもらえない。だがニタは3人の子供たちを養うため困窮していた。そこでトゥアソン家はニタを使用人として雇い入れる。

裕福でありながらも様々なしがらみに苦悩するトゥアソン家と過ごすうちに、夫を殺害した一家に対して、赦しの気持ちが芽生えていく。手間のかかる郷土料理を振る舞い、服役中のアルフレッドを見舞うニナ。次第に両者ともに打ち解け合っていくが、事故を起こしたのはラファエル。献身的なニナの姿を見て苦悩する彼は、ある決心をする――。

安っぽい言葉になるが、フィリピンの経済的、社会的不平等を扱っている作品なのだが、なんとも奇妙なのは「その不平等による分断」を“食事(FEAST)”によって共有できるとしている点だ。ゆえに本作は食事や料理の工程を偏執的なまでに描いている。食事は生存だけでなく、社会的にも“生きる”ために不可欠だということだろうか? しかし、それで罪が赦されるのだろうか?

甚だ疑問ではあるが、罪悪感を克服するための過程として、食文化を扱うのは、なかなか希有な発想だ。トゥアソン家は徹底してニタに謝罪の意を表明しているが、これもまた富裕層は裕福たる責任を持つべきという、ノブレス・オブリージュ的な考えもありそうだ。そこで本作の監督ブリランテ・メンドーサに、本作についてメールインタビューを試みた。

「財産が少ない者は“自由”であるとロマンチックに語られますが……」

―食事に注目した償いと赦しの物語が斬新でした。

私は日本の食べ物や人々が好きです。日本には柔らかな美しい色があり、私の国には違う美しい色がある。私たちは似ているけれど違う。日本は自国の文化や過去を尊重することで知られていますが、私は自国の文化も紹介したいと思っています。

日本人はとても従順だと思うし、悪いことをしたときにはとても反省します。反省の示し方や、家族やコミュニティに対する義務の果たし方はそれぞれ違いますが、同時に私たちの国民性はとても寛容です(私がこれまで経験した限りでは)。ですから、私は彼らが寛容さ、家族、団結することの重要性を理解し、もちろん私たちの美味しい食べ物にも感謝し、さらに私たちの国に興味をもってくれたら嬉しいと思います。

―トゥワソン家はお金も地位もありますが、血族という紐で縛りつけられているように見えます。一方でニタはどちらも持ち合わせていませんが、すべてが自由に思えます。この対称性に注目しました。実際、フィリピンではよく見られる環境なのでしょうか?

詩的な質問ですね。フィリピンでも、財産が少ない者は自由であるとロマンチックに語られますが……現実的に言えば、お金や地位のある人が自由です。しかし、この映画で描かれているのは「自由」であり、「束縛」でもあるということで、数少ない人たちを大切にしたかったんです。

「 誰かを赦せば、私たちはすぐに幸せで心地よくなれるのでしょうか?」

※以下、物語の内容に一部触れています。

―父の言いなりで、その割に元妻に言い寄るなど非倫理的な行動が多いラファエルですが、実際に彼のような息子を持ったらどうしますか?

もし私にラファエルのような息子がいたら、彼の行動の結果に苦しんだでしょう。確かに事故は悲劇的だし、ラファエルは世間知らずで、それが彼の最大の罪だと描かれています。しかし、そのナイーブさゆえに、彼は未熟でもある。現実には、自ら罰を受けることを許すのは、彼に成長を促し、人生そのものによって磨かれ、最終的には自らの罪を反省することによって成熟することを余儀なくさせます。

父親として、私は厳しくもありますが、優しく導くように心がけています。私に従順でありながら、他人を尊重せず、力ずくで物を得ようとする息子がいたら幻滅します。親がきちんとマナーを教えていても、そういうことはあるでしょう。でも、そんな行動は最初から正すべきだと思います。私の家にも植木がたくさんありますが、野放しにしたまま放っておくと、手遅れになって大変なことになりますよ!

―被害者と加害者が打ち解けるのは理解できます。加害者が最終的に告解したのも頷けます。でも、最終的に被害者が加害者を祝い、料理をふるまう……これは両者にとって幸せだったのか? と居心地の悪さを感じました。なんとなくニタが無理やり納得しているようにも見えますが、実際いかがでしょうか?

“赦す”ということが、ほとんどの人にとって不快なことであることは理解できます。しかし、これは私の受け止め方ですが、ニタは死すべきものを超越し、神聖な存在となったんです。ラファエルとその家族に比べれば貧しく地位も低い人間ですが、彼女はお金や地位のある人間には手の届かない行為をした。普通の人にはできないことです。そして私たちはこの行為を尊び、彼女が自分に対して罪を犯した人々に奉仕することは“神聖なこと”とします。

例えば、誰かが私たちの大切な人を傷つけたとして、被害者側が笑顔で“犯人を赦す”と宣言しようとするのを見たら、あなたはどう感じるでしょうか? それは心地よいものでしょうか? 誰かを赦せば、私たちはすぐに幸せで心地よくなれるのでしょうか? そうではありません。でも、赦すことは可能です。“愛する人を殺した人”を赦すことは、愛する人を裏切ることではなく、生き続けるためには時に必要なことなのです。

私たちは正義を求めますが、痛みや憎しみは、どちらも心地よいものではないはずです。赦す者は、現在において完璧に幸せでしょうか? あるいは将来、幸せになれるのでしょうか? それは人それぞれですから分かりません。でも、罪を犯した者にとって、赦されることは完璧に幸せなことでしょうか?

私たちが罪を犯すとき、良心の呵責がまったくない場合を除いて、心の中で罪の意識が完全に消えることはありません。繰り返しになりますが、これはすべての人にとって異なることであり、ひとつの過程であり、ひとつの選択であり、ひとつの希望であり、ひとつの始まりなんです。

「十分に恵まれた人たちの多くが、責任を持つためにその力を使おうとしないことが問題」

―ノブレス・オブリージュ(※)という考え方については、どう思われますか?

社会的地位に関する気高さもあれば、たとえ貧しい家に住んでいたとしても、魂に宿る気高さもある。ノブレス・オブリージュという言葉自体については……その考え方は良いし、正しい。どんな地位や特権を与えられても、その力を使って他人を育てることができると自覚すべきでしょう。問題は、十分に恵まれた人たちの多くが、責任を持つためにその力を使おうとしないことです。

多くの人は誰に対しても義務感を持っていないし、それを強制することもできないと思います。“あるべき姿”という考え方もありますが、現実はそうではありません。当然、フィリピンでもそうです。理想としてはね。でもお金を持っている人すべてが気前よく負担してくれるわけではありません。皮肉なことに、恵まれない人たちこそが寛大なのです。なぜなら気前の良さは決して、どれだけ与えられるかで測ることはできないからです。だから常に、自分がどれだけ持っているか/どれだけ与えられるかで測られるものではないと、私は考えています。

(※「noblesse(貴族)」と「obliger(義務を負わせる)」を合成した言葉。人の上に立ち権力を持つ者は、その代価として果たすべき重責があるという意味)

実に奇妙な余韻を残す作品『FEAST -狂宴-』。本作のラストシークエンスには奇妙なスリルがある。赦す行為をここまでスリリングに描いた作品はそうそうないだろう。是非その目で確認してほしい。

取材・文:氏家譲寿(ナマニク)

『FEAST -狂宴-』は2024年3月1日(金)より全国公開

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