『不適切にもほどがある!』胸が詰まる純子と渚の対面 昔話が“エモい”に変わる巧みな展開

例えば、人生の先輩が「俺が17歳のころはな……」と語り始めたら、“また昔話が始まったよ”なんて遠い目になってしまうだろうか。若者としては古いネタにうんざりし、少々自慢の入ったうざい話題に「面白くない」などと思ってしまうのも、仕方ないことなのかもしれない。

だが、もしその話をしている人が、間もなくもう二度と会えない場所に旅立ってしまうとしたらどうだろうか。いや、すでに他界している自分の肉親だったとしたら? いっそ、その昔話の中にしか生きていない、若き頃の親に会って話したいとさえ願うのではないだろうか。

金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)第6話、「うざい」と敬遠されがちな昔話が、むしろ「エモい」へと切り替わる展開が非常に巧みだった。1986年から2024年にタイムスリップしてきた市郎(阿部サダヲ)は、自分と娘の純子(河合優実)が1995年の1月に起こる阪神・淡路大震災で命を落とす運命を知ってしまう。あまりにも短い残りの人生。そして、結末が決まってしまっている未来に絶望しながらも、現実から目を背けるようにテレビ局のカウンセラーとして精力的に働くのだった。

そんな市郎のもとに、2024年を生きる孫の渚(仲里依紗)が同期の由貴(ファーストサマーウイカ)を連れてカウンセリングルームにやってくる。相談事はベテラン脚本家・エモケン(池田成志)の昔話についてだった。たしかに、エモケンの昔話は由貴にとっては関わりの薄い話題ばかりで楽しむこともできない。とはいえ、「つまらない昔話はやめてくれ」なんて言うことなどできない関係性であることから、悩んでしまうのも頷ける。きっと視聴者の多くも、そんな由貴に共感する形で見進めていたのではないだろうか。

しかし、市郎と共に純子が2024年へタイムスリップしてきたことで、その視点がガラリと変わる。父・ゆずる(古田新太)の昔話の中にしかいなかった若き母。いや、目の前にいるのは、父とも出会う前のさらに若い17歳のころの母だ。娘である渚と対面した純子は、目の前の女性が自分の娘の未来の姿だとは知らない。そんな純子に渚が「子ども好き?」とたずねる風景に思わず胸が詰まった。幼くして母と死別することになった渚にとって、その質問には“自分のことが好きだったか”を確かめたい気持ちがあったようにも見えたからだ。

「うん、大好き」と微笑む純子の言葉に、渚は安心したような表情を浮かべる。本当はもっといろんな話がしたいに違いない。母と娘でしかできない会話を。しかし、この状況ですべてを話すことは、純子にこの先の運命を知らせることになりかねない。ならばと渚は純子を買い物へと誘う。友達のようにショッピングをして楽しもうと考えたのだろう。昔話をするとき、人はその年齢の自分に戻っているのだ。同時に、その話に登場する人物たちもみんな若く、話しながら再会している気持ちになる。それはもうひとつのタイムマシンなのかもしれない。

エモケンが昔話ばかりをして打ち合わせがなかなか進まなかったのも、きっとどこかでいろんなことが変わってしまった不安や、親睦のあったかつての仲間たちがいないアウェイな空間に寂しさを感じていたからではないだろうか。もちろん、その時代を知らない人にとっては遠い過去の話にしか聞こえないだろうし、「知らねーし」「生まれてねーし」となっている若者をそのタイムマシンに乗せることは難しいかもしれない。けれど、若者側としてもその昔話の中にしか生きている人がいるということに思いを馳せるロマンを持っていて損はないのではないか。だって、今も1秒前はすでに過去になっていて、いつかは自分もそのタイムマシンを心の糧に生きることになるのだから。

なにせ学園ドラマで不良少女を演じていた三原じゅん子は政治家になり、バリバリのアイドルだったマッチだっていろいろあってレーサーになっているくらい、今あるものはみんな変わっていってしまうのが世の常だ。それこそ、大きな天災に見舞われることだってある。そんな激しい変化に対応していくためにも、人は過去からしか学べない。だから、昔話で過去と現在を行き来して、未来へのヒントをつかもうとするのではないだろうか。その構図は、このドラマそのものにつながっているようにも思えて興味深い。

そして、市郎が「どうなるかわかってる人生なんてやる意味あんのか、クソ」とつぶやいたボヤきが、このドラマの読めないストーリー展開ともリンクしているような気がする。予定調和に事が進む未来よりも、何が起こるかわからない未来こそ面白い。リスクヘッジに頭を悩ませているくらいなら、本当に考えなくちゃならないそのときまで、今この瞬間を好きなように楽しめ。そんなメッセージを受け取ったような第6話だった。
(文=佐藤結衣)

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