船でしか行けない場所も…!温泉学者が絶賛する“秘湯中の秘湯”14選

(※写真はイメージです/PIXTA)

温泉と一口に言っても、「宿場系」「湯治場系」「秘湯系」と、その種類はさまざまです。とりわけ本物志向の温泉ファンに高い人気を誇るのが「秘湯系」で、「1980年代から始まった空前絶後の“秘湯ブーム”以来、日本人の間にすっかり定着している」と、温泉学者であり、医学博士でもある松田忠徳氏は言います。松田氏の著書『全国温泉大全: 湯めぐりをもっと楽しむ極意』より、詳しく見ていきましょう。

温泉街のにぎわいは「湯治湯」の発展とともに生まれた

日本の温泉は文献が残されている奈良時代から、最初の東京オリンピックが開催された1960年代頃まで、わが国の治療学史において重要な役割を果たしてきました。とくに街道や宿場が整備され、庶民の旅が容易になった江戸時代以降、温泉場は効能を競っていたので、現在とは異なり“効かない”温泉は温泉と称することは憚られていたほどです。

ですから温泉街も、湯治場の発展とともに始まったといってもいいでしょう。湯治場のなかには、薩摩街道の日奈久(熊本県)や長崎街道の嬉野(佐賀県)のように宿場としてにぎわった湯治場もあるので、温泉街は「宿場系」と「湯治場系」に分類しておくことにします

宿場系は東京オリンピック開催の昭和中期以降は「行楽・歓楽型」となり、湯治場系は「行楽・歓楽型」と「療養型」に二分されます。

また酸ヶ湯温泉(青森県)や「鶴の湯温泉」に代表される乳頭温泉郷(秋田県)、阿蘇の地獄温泉(熊本県)などは、現在は「療養型」、あるいは後にふれる「秘湯系」としても、熱心な温泉ファンの間で人気のところが多いようです。

アクセスもしやすい「宿場系」の温泉

行楽・歓楽型の温泉地はもともと宿場が原型であったため、交通の便に恵まれた土地に発展しています。主な立地としては山間と海辺ですが、山間の場合はほとんどが河畔に開けています。

かみのやま温泉(山形県上山市)

羽州街道の宿場町として発展したかみのやま(上山)温泉(山形県)は、米沢街道の分岐点でもあり、松平氏三万石の城下町としても知られていました。

歴代藩主は共同浴場「下大湯」を設置したり、旅籠に内湯を引くことを認めたりしたため、早くから温泉場としても栄え現代に至ります。そのため湯治客はもちろん、参勤交代の大名や蔵王山や出羽三山詣での旅人でにぎわいを見せました。現在も“羽州の名城”と呼ばれていた往時を再現した上山(月岡)城を中心に、武家屋敷通りが残されるなど、個性的な湯町を形成しています。

下諏訪温泉(長野県下諏訪町)

中山道と交わる甲州街道随一の宿場、下諏訪(長野県)は「温泉のある門前町」として広く知られていました。諏訪湖の北岸に鎮座する諏訪大社下社秋宮の門前町として大変なにぎわいを見せた下諏訪温泉は、名湯「綿の湯」が有名で、当時としては最大級の「旅籠四〇軒」といわれ隆盛を誇ったものです。貝原益軒、十辺舎一九、葛飾北斎等も宿泊した湯町には、現在も江戸期創業の温泉旅館が複数健在です。

【写真】下諏訪温泉の街並み 出所:PIXTA

嬉野温泉(佐賀県嬉野市)・武雄温泉(佐賀県武雄市)

九州は温泉が多い土地柄なだけに、温泉場の宿場がかなりありました。たとえば長崎街道には嬉野宿と塚崎宿(現在の武雄)。前者は嬉野温泉(佐賀県)、後者は武雄温泉(同)。数ある街道沿いの宿場町で、温泉のある宿場が続くところは長崎街道だけです。

730年頃に編まれた『肥前国風土記』にも登場する嬉野と武雄は、佐賀県というよりも九州を代表する行楽・歓楽型の大温泉地です。武雄はもともと墓崎(つかざき)と呼ばれ、時代が下って塚崎、柄崎などと表されるようになったのが、明治28(1895)年に九州鉄道が開業した際に、駅名を柄崎とせずに武雄としたことから、武雄の名が一般的になります。

嬉野湯宿、湯町、嬉野駅などとも呼ばれていた嬉野宿は、現在の「和多屋別荘」付近から「大正屋」の前までの約500メートルで、この間に30軒ほどの旅籠、木賃宿があり、商家、農家などをあわせると100軒余りの宿場だったといわれています。

佐賀藩の三支藩のひとつ蓮池藩の藩営の浴場があり、オランダ商館医でドイツ人医師ケンペルの『江戸参府紀行』にも登場したり、シーボルトによって温泉の調査が行われるなど、早くから外国人にも知られていました。それも長崎街道の宿場であった賜物でしょう。

安永9(1780)年の『湯方定書』によると、上湯、並湯等の別に入浴できる浴槽の規定や入浴料が定められており、「足軽以下町民は並湯に入ること」とあります。

一方、塚崎宿は現在の武雄温泉のシンボル、竜宮城を思わせる華やかな天平式の桜門の場所に本陣の正門があり、その奥に本陣と温泉場があったようです。脇本陣は現在の「湯元荘東洋館」の位置でした。温泉場には御前湯があり、佐賀藩主鍋島家や領主等が使用していました。

享和2(1802)年、尾張の商人、菱屋平七の長崎までの旅の記録『筑紫紀行』に柄崎宿のにぎわいが記されています。「……柄崎の宿。人家四百軒計り。佐賀の家臣衆の領地なり。此所に湿瘡疥瘡などによしといふ温泉あり。遠近の人湯治に来り集る。さるによりて宿屋茶屋も多し」

温泉好きの「穴場」は“湯治場系”

肘折温泉(山形県大蔵村)・俵山温泉(山口県長門市)

肘折温泉俵山温泉を、東西の代表的な湯治場系の温泉街と評価してきました。

季節の山菜、野菜、果物などが並ぶ朝市でも有名な肘折温泉は、月山の山裾に湯煙を上げる20軒ほどの湯治宿が所狭しと軒を寄せ合う。数軒の土産物屋も活気があり、温泉街に4軒の共同湯があります。私はかねてから共同湯(外湯)の数は温泉街評価の大切な指標となると考えてきました。

そのひとつ「上の湯」は別名「疵(きず)の湯」と呼ばれ、肘折温泉発祥の湯です。骨折の後療法、術後の回復、婦人病、神経痛、リウマチ(関節リウマチ)などに卓効があるといわれてきました。

肘折温泉(山形県大蔵村) 出所:PIXTA

一方、俵山温泉は、木造2、3階建ての湯治旅館が、狭い湯町に20軒ほどひしめきます。石畳の路地を浴衣姿の湯治客が外湯(共同湯)へ向かう、今なお湯の町情緒漂う正統派の湯治場です。旅館に風呂を持つ宿は1、2軒しかなく、昔ながらの外湯が湯町の顔です。

江戸前期には長州藩毛利家の御茶屋(別荘)が建てられ、その霊験あらたかな湯が評判で、湯治旅館が江戸中期にすでに20数軒もあったといわれる俵山は、現在も“リウマチの名湯”として全国から療養客を集めるほど、その湯質には定評があります。

昭和の東京オリンピック以降、高度経済成長に乗って、日本の多くの温泉場は行楽・歓楽型へ向かいましたが、それでも“温泉の原点”である湯治に軸足を置いた温泉もかなりの数に上ることは日本の温泉文化の多様性を示すものに違いありません。

湯治、療養の温泉は心身に“効く”温泉を維持していることが必須条件ですから、一級の温泉に出合える可能性が大であることを考えると、たとえ一泊であっても時には湯治場系の温泉地を選ぶのも理に適った選択といえます。静かな環境と比較的空いていること、それにリーズナブルな料金を考えると、“温泉好き”には湯治場系は“穴場”なのです。

俵山温泉(山口県長門市) 出所:PIXTA

“本物の温泉”の代名詞=「秘湯系」

法師温泉(群馬県みなかみ町)

群馬県の一軒宿の秘湯、法師温泉(群馬県)に代表される昭和50年代後半(1980年代)から始まる、空前絶後の“秘湯ブーム”以来、今日では秘湯という言葉は日本人の間にすっかり定着しています。「アクセスに恵まれない秘境の地や辺鄙な土地の、主に一軒宿の小さな温泉」を指す言葉です。

都市化された行楽・歓楽型の宿場系温泉街に飽き足らない、本物志向の温泉ファンに人気があります。本物志向とは、俗化度の低い本物の自然環境であり、その多くが“源泉かけ流し”、“自家源泉”などに象徴される本物の温泉の代名詞でもあります。これに地場産の新鮮な山の幸、海(川)の幸などの食材が加わります。

法師温泉(群馬県みなかみ町) 出所:PIXTA

乳頭温泉郷(秋田県仙北市)

乳頭温泉郷(秋田県)の評価が、わが国の温泉における秘湯の位置づけを確立させたといっても過言ではない、というのが私のかねてからの認識です。

田沢湖高原の奥、乳頭山麓の先達川が縫うように流れるブナの原生林のそこかしこから、濃い湯煙が上がります。鶴の湯温泉大釜温泉乳頭温泉妙乃湯温泉蟹場温泉孫六温泉黒湯温泉――。この七湯から成る乳頭温泉郷は「日本最後の秘湯」とも呼ばれ、その個性的な温泉と宿のたたずまいで、都会客を魅了し、今日に至っています。最近ではアクセスが不便にもかかわらず欧米人の姿もふえ、“HITO”は国際語になりつつあります。

乳頭温泉郷(秋田県仙北市) 出所:PIXTA

温泉ファン必見!日本が誇る「秘湯中の秘湯」

法師温泉、乳頭温泉郷の他に、十勝岳温泉「湯元 凌雲閣」(北海道)、夏油温泉(岩手県)、姥湯温泉(山形県)、甲子温泉(福島県)、奥鬼怒温泉郷(栃木県)、中房温泉(長野県)、奈良田温泉(山梨県)、大牧温泉(富山県)、奥飛騨温泉郷(新穂高温泉)「槍見の湯槍見舘」(岐阜県)、祖谷温泉(徳島県)、地獄温泉(熊本県)など。これらは秘湯中の秘湯でしょう。

なかには大牧温泉「大牧温泉観光旅館」のように、庄川を船でしか行けない秘湯もあります。辺鄙な地にもかかわらず施設は驚くほど洗練され、料理も一般にイメージされるような秘湯の宿とは思えないレベルです。

松田 忠徳
温泉学者、医学博士

© 株式会社幻冬舎ゴールドオンライン