“平成最後の破天荒アナ”の異名を持つ垣花正「失敗しても死ぬわけじゃない」

現在、TOKYO MX『5時に夢中!』全曜日(月~金)のメインMCであるフリーアナウンサーの垣花正。月曜から木曜の午前中は17年目を迎えるニッポン放送のラジオ番組『あなたとハッピー!』のパーソナリティーも務めており、毎日が分刻みのスケジュール。

そんな多忙を極める彼の肩書きがもう一つ増える。『垣花アナウンススクール』として、アナウンサー志望の学生サポートを今月から始めるという。フリーアナ戦国時代の現在において、独自路線で道を切り開いてきた彼はまさに成功者。だが、その半生は波乱万丈。「崖っぷちは、いっぱい経験しています!」と爽やかな笑顔を見せるが、いったい、どんな修羅場を潜り抜けてきたのだろうか。

▲俺のクランチ 第48回-垣花 正-

メディアに対する渇望がすごかった少年時代

「これからの人生が、どう転ぶかわからない年頃の若者のことを、すごく応援したいんです。みんなポテンシャルは高いのに自信がなかったり、どう自分を表現していいのかわからなかったり。ちょっとしたコツで伸びるから、伝えてあげたいと思ってしまうんです。親が教師だったからかもしれません。

失敗しても、心のどこかで“オイシイな。ネタになるじゃん”という発想になれれば、ほとんどの人がアナウンサーに向いています。残念なことに、最近はアナウンサーを目指す人が珍しくなってきているようなんですけど……。ただ、局アナを目指していなくても、面接を成功させることは就職活動全般につながります。自己PR、自分の強みを見つける作業は、きっと就活に限らず大事なこと。それは僕が崖っぷちに追い詰められていたことにも関係しています」

さすが話術の天才。滑らかな話ぶりに知らず知らずのうち、どんどん引き込まれていく。聞けば、子どもの頃からアナウンサー志望だったとか。夢を描くようになったのは宮古島で育ったことが大きい。

「メディアに対する渇望がすごかったんです。とにかく情報がない。琉球新聞は夕方届き、朝日新聞に至っては翌日届くんです。テレビはNHKしか映らない。時々、親戚の家に行くとケーブルテレビに加入しているから、民放が見られる。もう、かじりついて見ていました。テレビで喋っている徳光和夫さんや福留功男さん、プロレス実況している古舘伊知郎さんなど、民放のアナウンサーって面白そうだなと思いました。

本が好きで雑誌のインタビューなどで読むと、アナウンサーは皆さん立教や早稲田を卒業していて、これは東京の大学を出なきゃダメだと思い始めました。とにかく最初は東京に出たい一心。宮古島の高校では東京の大学には行けないと思って、沖縄本島の進学校を受けるために中3の1年間はものすごく勉強して、成績もぐーんと上がったんです。

模試判定もよかったのに、母親から“いつか島を出るにしても、15歳で手放すなんて私は耐えられない。絶対にダメ。せめて18歳までそばにいて!”と泣きつかれまして。こっちもこっちで“子どもの将来のためだよ”って言い返したんですけど、聞いてもらえませんでした(笑)」

15歳で早くも岐路に立たされた垣花少年。結局、宮古島の高校に進学するが、このままでは目指す東京の大学には手が届かないかもしれない。これまた雑誌を読んでいたとき、前途に光明を見出す。

「『螢雪時代』という雑誌で、早稲田大学の自己推薦制度が始まるという記事を読んで、“俺の抜け道はこれしかない!”と思いました。宮古の高校で熱心に勉強をする生徒は多くないから、ちょっと頑張れば目標の平均評定の4.5以上はすぐ取れるんです。一般入試の筆記試験で受かろうという気持ちはゼロで、早稲田大学の自己推薦制度の一点突破を目指して、高校生活を過ごしました」

“他人と違うことをやってみよう”をやりすぎた

大学受験を一本勝負で挑戦するとは、この頃から生来のギャンブル気質がうごめいていたことは否めないが、見事、第一志望の早稲田大学に入学。その後は順調にアナウンサーへの道まっしぐらかと思いきや……。

「大学に入るまでは本当に真面目だったんです。世間知らずで、いろんなことを経験しないまま東京に来たから、なんでもやってやろうという気持ちがありました。新しい場所に飛び込んでいくことが好きだったんです。

アナウンサー志望でアナウンサー研究会に3年間いましたが、萩本欽一さんの欽ちゃん劇団に入ったり、テレビ朝日で深夜にやっていた『プレステージ』という番組の、素人が自分の考えた企画をプレゼンテーションするコーナーにも出ました。いざ就職活動っていうとき、変なことばかりやっていてよかったなと思いました」

計算通り、晴れてニッポン放送に就職。憧れのアナウンサーに。ところが夢が叶ってからすぐに土壇場を経験することになるのだ。

「想像していたものと違っていたんです。アナウンサーになってみたら、あまりにもイントネーションとアクセントがでたらめで、周りから“ダメだ”と言われ過ぎて、どんどん緊張してイップスみたいになり、“まともに仕事ができないヤツが入ってきた”と評判になるほどでした。

ところが、当時のニッポン放送が面白いのは、何にもできないんだったら、深夜の人気番組『オールナイトニッポン』をやらせてみようというプロデューサーがいたんです。その人が言うには“本当にできない人はリスナーから愛されるから、そういうヤツを使ってみたい”って。入社1年目でいきなり冠番組をやらせてもらいました。

けれど、やっぱりダメだったんです。そして番組は早々に終了。そのとき、トークの組み立てができないなら、毎週ひとつ変な場所に潜入して、他人と違ったことをやってみようと思ったんです。別にそこまでしなくても……というぐらい突き進んで、一歩間違えれば、塀の向こう側に行ってしまってもおかしくないような瞬間も経験しました」

体重が100キロ近くあり、髪型は番組でモヒカンに。トークの内容は借金の話や風俗体験がメインだった。現在の姿からは想像もつかないが、“平成最後の破天荒アナウンサー”の異名を持つ。

「ニッポン放送は寛容な会社でしたね。“お前みたいな変なアナウンサーを養えなくなったら、うちの会社はいよいよピンチだ”って。そんな立場の僕が、2019年に会社を辞めてフリーになると言い出したときは“お前から言うのか! 毎日のように借金取りの電話が会社にかかってきても、クビにしなかったのはニッポン放送だぞ!”と言われました。本当にその通りです(笑)」

見方を変えれば最大の土壇場さえもネタになる

長年番組に携わるなかで、遅刻をしてゲストを待たせたり、寝過ごしてドタキャンするなど、いくつものピンチがあった。それでも、人生最大の土壇場は競馬好きが高じて、大きな借金を抱えたときだと振り返る。結婚した現在は、収入の全てを奥さまがキッチリ管理し、現金は1円も持たされず必要最低限の電子マネーのみ所持する。

「借金して金が回らなくなって、水道、電気が止められる。自宅の電話も止められているから、借金取りの電話がニッポン放送にかかってくる。家賃を3か月滞納して、“今月払えないなら、出て行ってください”という通達が来て、有馬記念で稼がなきゃと思い、ボーナスと給料を全部賭けて、外して……。本当にピークでした。

次の給料日までどう生きていいかわからないし、家も出なきゃならない。今だから笑って話してますけど、当時は乗りこえようとか思っていないです。今日1日をどう乗り切るか、なんですよ。とりあえず、明日までのお金がまず必要。お金がないと、呼吸していないみたいに息が苦しいんです。

とにかく息継ぎしたい。誰でもいいからお金を借りられる目途がついた瞬間、水面に上がって、プハ~って息ができる感じで、あとはずっと潜っている。そんな感じでした。それも全部ネタにして、放送で喋っていましたけど(笑)」

2001年にラジオ『ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回』の3代目アシスタントに就任、しかし初仕事で遅刻し、あの和田アキ子を激怒させたのはもはや伝説だ。

「今でこそ長いお付き合いになりましたが、アッコさんには最初、まったく心を開いてもらえませんでした。でも、アッコさんと絡めているだけで幸せなんです。今、『5時に夢中!』の月曜コメンテーターで一緒のマツコ(・デラックス)さんもそう。僕なんかからしたら、芸能史に残るような人と一緒の番組をやれているっていうのは、それだけで貴重な経験です。

放送中、どんなに冷たくされても全く気にしないです。失敗して、落ち込んでも、いつも“死ぬわけじゃない”って思うんです。そう思って、これまでなんとかしのいできました。例え、失敗して全てを失っても、“東京に出てこられただけ、ラッキーじゃん”って、心のどこかにあるんです。

『5時に夢中!』のMCをやらせていただけたのは本当に感謝。もちろん終わりたくないですし、長くやりたいですから、プロデューサーやスタッフとのコミュニケーションは大事にしています。萎縮しても面白くないじゃないですか。自分のことを使ってくれた人に対しては恩返ししたいです」

人と比べて、強心臓なわけでもない。怖いものがないわけではない。全ては自分の考え方次第。だから、スヴェンソンで増髪していることも隠さずにカミングアウトするし、自宅では全裸で過ごすことに驚かれたら“それって変わっているんだ!”とエピソードにしている。

「心臓は全然強くないです。全部、モノの見方を変えているだけなんです。逆算して考えていけば、失敗も恥ずかしいこともあんまり怖くないし、変わっていると言われることも武器になりエピソードとして使えます。それは確実に自分の強みになるんです」

(取材:髙山 亜紀)


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