映画『哀れなるものたち』を語るうえで欠かせない古典小説『フランケンシュタイン』を読み直す

物語を紡ぐ、その一点においては小説と映画は同じ場所を眼差している。しかし、文字により語られる人生と、映像により切り取られる人の姿は同じものではない。また同様に、小説の行間から漏れ出たものと、フレームの外に追いやられたものも同一ではない。多くの小説が映画という別媒体に置き換えられ、語り直されている。しかし、いわゆる原作と映画が全く同じものであることはありえない。もちろん、だからこそ面白いのだ。本稿では、映画そのものに体当たり評を行うのではなく、その元となった小説に焦点を当て、そのうえで映画を見つめ直してみたい。

ゴールデングローブ賞を受賞、さらに本年のアカデミー賞にて作品賞を含む11部門にノミネートされ、興行的・評価的にも話題となっているのがヨルゴス・ランティモス監督作『哀れなるものたち』だ。

医師ゴッドウィン・バクスター(演・ウィレム・デフォー)の手により胎児の脳を移植された死体は、ベラ・バクスター(演・エマ・ストーン)として新たな人生を歩みはじめる。成人女性の肉体に赤子の頭脳。歪な存在として生まれ変わったベラはゴッドウィンの庇護を離れ、広い世界を目にして精神的・頭脳的な成長を遂げ、自己を獲得してゆく……。

映画の原作となったのはスコットランドを代表する小説家アラスター・グレイによる同名小説『哀れなるものたち』。1992年に発刊されたこの本は、小説……と言ってしまって良いのだろうか? と思えるほどに奇妙な構造をとっている。物語の核を成すものは、アラスター・グレイのもとへと持ち込まれた1909年に書かれた一冊の個人史「スコットランドの一公衆衛生官 医学博士アーチボールド・マッキャンドルスの若き日を彩るいくつかの挿話」。ここに書かれた内容に衝撃を受けたグレイは本書の書籍化を決意する。つまりグレイは本書の著者ではなく編者である、という立場をとっているのだ。

さらに、この個人史には付属する書簡が存在した。マッキャンドルスの妻、ベラが著者の死後に記した「本書の内容は全てデタラメである」と否定し反証する手紙だ。グレイは膨大な脚注を付記したうえで、個人史と書簡を合本とし、読者に「あなたはこの物語を真実だと思うだろうか、それとも大法螺と断じるだろうか」と問いかけてみせる。なんとも人を食った本である。さらに、グレイによる「当時の本を再現した」挿画も含まれるので、そのレイヤーの多さは尋常ではない。かように複雑な奇書『哀れなるものたち』。この本を一口に語ることは困難である。なので、それぞれの部分を解体して本書を読み解いてゆきたい。

まず「スコットランドの一公衆衛生官~」が開陳される。若き医師マッキャンドルスは、医学校でゴドウィン(本書の表記による)と出会う。怪物のような顔、円錐状の手指、ずんぐりとした巨体。この人ならざる容貌の同級生とマッキャンドルスは親交を深める。そしてゴドウィンは彼に衝撃的な秘密を打ち明ける。醜い彼は、自分を肯定してくれる女性を創ったと言うのだ! 胎児の脳を移植された死体、ベラにマッキャンドルスは心奪われる。深く傷つきながらも、ベラと彼を祝福するゴドウィン。しかしベラはマッキャンドルスを愛しながらも、放蕩者の弁護士ウェダバーンにそそのかされ、広い世界を見るため駆け落ちする。

ここまではマッキャンドルスにより語られていたが、駆け落ち以降はベラからの手紙という形で視点が切り替わる。無垢な脳を持つ彼女は、様々な光景を見て、セックスの快楽を知り、さらに人間世界の悲惨さを知ってゆく。ベラは精神的、肉体的なコミュニケーションを通じて自分の在り方を考える。社会をより良くするにはどうしたら良いか、自分はいかに生きるべきか……。

この部分が本書の「物語的おもしろさ」を担う箇所だろう。言うまでもないが、本書の下敷きになっているのはメアリー・シェリーによる「フランケンシュタイン」である。ベラの創造主の名が、シェリーの父親ウィリアム・ゴドウィンから引かれていることは明白すぎるサジェストであるし、またその母メアリー・ウルストンクラストが「女性の権利の擁護」を著したフェミニズムの先駆者であることもまた、本書のテーマの一翼を裏打ちするものである。

その無垢さで愚かな男たちの心をかき乱し、成長と共に社会主義へと傾倒する「女フランケンシュタインの怪物」ベラの闊達さは読む者の心をつかむ。彼女の曇りなき眼を通して見える世界は『哀れなるものたち』に満ちている。利己的な男たち、家父長制、資本主義、格差……。その全てを飲み込み、自分が歩む道に対して下したベラの決断は、読む者に爽やかな感動を与えるに違いない。

頬を伝う涙を引っ込めるのが、続く「医学博士ヴィクトリア・マッキャンドルスより1974年に存命中の子孫のうち最も年嵩のものに送る手紙」である。ここでヴィクトリア・マッキャンドルス=ベラは「スコットランドの一公衆衛生官~」の内容を全否定する。自分は改造死体などではなく普通の女性であり、またマッキャンドルスを愛してなどいなかった、と語るのだ。マッキャンドルスによる捏造が書籍として残ることで「三人が等しく過去を奪われた」なんて書かれた暁には、俺の涙を返せ! だなんて思ってしまいそうだが、先ほどまでが本書の「物語的おもしろさ」ならば、ここからは「読み物的おもしろさ」を担うパートと言える。

マッキャンドルスによる物語と、ベラによる反駁を補強するものが、グレイが付記する「批評的歴史的な註」である。スコットランド史を交えて詳細に記されるこの注釈こそが、本書の全体像を明らかにするミソなのだ。特に、ベラの社会主義者としての活動を揶揄するような新聞記事、それを受けてのベラの意見表明の数々は、創作物であることを疑ってしまうほどの精緻さに満ちている(もちろんこれもグレイの意図だ)。また、ベラと独立労働党(後の労働党)の関わりも記され、政治色の強いものとなっていることも見逃してはならない。

マッキャンドルスとベラが紡いだ2つの物語に満足し、注釈を読み飛ばしてしまいそうになるきらいもあるだろう。しかし、ここは一言一句逃さぬ勢いで読むべきだ。この異様なまでに詳細に記されたスコットランドの近現代史と政治の変遷が、本書の内容と現実をシームレスに重ね合わせ、そしてひとつの像を結ぶことになるのだから。

結論から言うと、ベラ・バクスターはスコットランドという地そのものが仮託された存在である。ヨーロッパ最古の国土(成人の肉体)を有しながらも、イングランド王国と併合され、新たな国(幼い頭脳)としての歴史を歩み始めたスコットランドの成り立ちは、そのままベラ・バクスターの誕生譚と繋がる。また、「フランケンシュタイン」においても、スコットランドとは、フランケンシュタインの怪物が主人公に「自分のつがいとなる女を創造せよ」と命じた場所でもある。ゆえに、女フランケンシュタインの怪物であるベラという存在は、引用元から考えてもスコットランドという名と切っても切り離せないものなのだ。

この見地に立つと「スコットランドの一公衆衛生官~」の見え方も変わってくるのではないか。ブリテン連合王国としてのスコットランドは、急速な発展を遂げる。その一因はアメリカとの交易である。ここでアメリカをウェダバーン、交易をセックスに置き換えてみると……どうだろうか、ベラの成長物語への見立てが成立してしまうではないか。同様に、ゴドウィン、マッキャンドルスら登場人物をスコットランド王家、イングランドへと当てはめることも可能である。また、本書の主な舞台が首都エディンバラではなく、グラスゴーであるのも、連合王国の発展を牽引した地であるゆえだろう。

ベラをスコットランド、マッキャンドルスをイングランドと置き替えてみると、ベラによる社会主義への傾倒、そして反駁も別の意味を見せる。ここに潜むものは、スコットランド独立への動きだ。第一次世界大戦によりスコットランドは経済的に大きな打撃を受ける(本書でも「批評的歴史的な註」において、「後悔していることは?」と問われたベラが「第一次世界大戦」と繰り返す様子が書かれている)。この結果、スコットランドでは社会主義の熱が高まり、独立に向けた動きが高まる。マッキャンドルスの弁を否定して、社会主義者として自立するベラの姿は、ブリテンからの独立に向けて動くスコットランドそのものだ。

さて、かくも奇妙な構成の本書は「スコットランド」というキーワードで串刺しにすることにより、国家の歴史的寓話と言える顔を見せる。では、映画『哀れなるものたち』はどうであっただろうか。素人目にも、ベラによる反駁とグレイの注釈を映像化することは難しいように見える。やはりその通りに、映画は「スコットランドの一公衆衛生官 医学博士アーチボールド・マッキャンドルスの若き日を彩るいくつかの挿話」をベースに作られた。つまり、本書の肝……あるいは魂と言える「スコットランドの例え話」という要素はバッサリと切り落とされたのだ。

寓意を失った皮肉など、コース料理のうちの一皿だけを出されるようなものだ。そこに込められた意味が消失し、事象だけが残る。おそらく、この点には制作陣も自覚的であったのだろう。そのため、本書における要素のひとつ「女性の自立」を映画のテーマへと拡張し、スコットランドなる「お国の話」を「現代社会への問題提起」として換骨奪胎してみせた。映画が展開される、まるで絵画の世界のような、文化や技術が非現実的に組み合わされたランドスケープは「ここではないどこか」の物語であると示唆し、特定の地域へと観客の意識が集中することを意図的に避けた、スコットランド脱臭の試みに他ならない。

これは映画ビジネス的には英断に思える。昨年公開された『イニシェリン島の精霊』は2人の男の諍いを描いた映画だった。しかし、この映画が真に描いていたのはアイルランド内戦である。つまり、これもまた内戦を2人の男へと挿げ替えた例え話であった。しかし、同作は興行的に成功を収めたとは言い難い結果に終わる。なぜなら、この寓意に気付いたとて、その地に近しい人間にしか映画の持つ真価は伝わらないからだ。ならばよりマスへ、誰もが分かりやすい方向へと行くのがビジネスの基本姿勢である。

また、裏の意図を取り除かれた「女性の自立」の物語に強いインパクトをもたらすため、映画では原作におけるベラの性的な奔放さがより具体的に描かれる。つまり、セックスを重要なファクターとしたわけだ。ベラが自由意志により性行為に耽り、また性行為の相手と肉体的、言語的コミュニケーションを重ねることで自己を発見し、自立を果たしてゆく。これは男女かかわらず、肉体的接触の自己決定という点においては頷ける作劇だ。

一方で性行為が運んでくる危険性、それを行うことでしか生きられないほどに追い詰められた人々やセーフティネットへの視点が欠如していることは否めない。百歩譲って、フレームの外でベラがその点に気付き、万人を幸福にすべく社会主義へと傾倒したとしよう。しかし、その後には実にステレオタイプな家父長制的で有害な男性が登場し、ベラとの二項対立(男対女)が描かれてしまうわけで……。結果、映画全体が放つ問題提起の単純化としか言いようのない方面へと収束する。これでは片手落ちとの指摘も否めない。

このように寓意からの脱出を図り、しかし原作に存在する「セックス」「社会主義」を積極的に拾ったがゆえに問題提起の自縄自縛に陥った感のある映画『哀れなるものたち』。ただ原作を紐解いたうえで、一本の映画として形成し直した脚本家トニー・マクナマラの労苦を考えると……さもありなんといったところか。本作はアカデミー脚色賞にノミネートされているのだが、そこは支持したい。スコットランドのお国話を複雑怪奇に肉付けして正体を隠したグレイ、そしてスコットランドの要素を徹底的に排除するため現代的テーマを押し出したマクナマラ。立ち位置は真逆とはいえ、両者ともに「信用できない語り手」に徹したことは間違いないのだから。

取り繕うわけではないが、もちろん映像的に優れた点も数多く存在している。原作でマッキャンドルスの目線より書かれるベラの物語を、覗き穴のようなショットや、魚眼レンズを用いて「第三者の視点が介入している」ことを暗に示し映像に落とし込む手腕は文句なしに見事であるし、時に道徳的あやうさすら感じさせるエマ・ストーンの演技も驚嘆に値する。なので、本作が「優れた映画である」と評されることに対しては異論ない。ただ原作にあった「魂」が欠落しているだけだ。しかし、それもまた「人間が作りしヒト」を描く映画の在り方として一興ではないか。

(文=ヒロシニコフ)

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