ボーダフル・ジャパン 第10回 「憧れの博多」

急行「えびの号」が博多駅まで直通運転をしていた頃、八代から先の風景がたいくつだった。人吉を出た「えびの号」は、球磨川沿いを走るのだが、途中で鉄橋を渡ることもあり、風景は左右どちらの車窓からも楽しめる。古いトンネルをいくつも抜け、風情のある旅が続く。

クーラーがなかった頃、八代駅に近づくと独特のにおいがしてきた。製紙工場のそれだ。私はこれが苦手だったから、八代駅での停車は鬼門だった。そこから先はずっと平野。田んぼばかりが続く。父方の実家がある宇土に「えびの号」は止まらなかったので、熊本駅から普通で折り返した。

熊本から先、西鉄電車への憧れ

私は熊本駅で降りることなく、そのまま列車に乗り続けたいといつも内心思っていた。車窓は単調だが、少しづつ都会へと近づいていく雰囲気でわくわくするからだ。まず大牟田駅。見慣れないおしゃれな電車(汽車ではない!)が止まっている。時折、そこから「えびの号」としばらく並走する。西鉄電車の特急だ。あれに乗りたいとずっと思っていた(そもそも当時、国鉄でも私はあまり電車をみることがなかった)。

井筒屋が入居していた旧博多駅

もっとも国鉄の駅はたいてい町はずれにあったから、駅まわりの風景はあまり面白くない。久留米も鳥栖もそうだった。だが博多駅は違う。まず駅舎がとてもでかい。さらにデパート(井筒屋)が入っている。駅をでると市電がいきかい、ひとひとひと。都城、いや宮崎や鹿児島でも見たことがない光景に圧倒された。

西鉄の路面電車はとても複雑で深い。電車好きの私もこれを全線踏破した記憶がない。当時は車がどんどん乗り入れるから、渋滞でとてつもなく時間がかかる。一路線を乗り切るだけでも数時間。だから専用軌道があった千鳥橋から九大中門電停を通って、貝塚までいく5番系統。筥崎宮あたりで一瞬だけ専用軌道になる九大前行1番系統が気にいっていた。だが、もっとも面白いのはぐるぐる廻ってどこにいくかわからない8系統だろう。

在りし日の西鉄路面電車## 電停は、バス停へと変わり・・・

地下鉄の開業に向けて路面電車はとうの昔に廃止になったが、姪浜電停跡や筥崎宮(箱崎電停)、貝塚線の専用軌道の名残はいまでもわかる。もっとも今は九大移転にともない、電車を引きついだバス停名もなくなってしまった。「九大前」は「箱崎三丁目」、「九大北門」(九大箱崎キャンパスの中を突っ切ってた電車と違い、3号線は北側だったため、この名称に変わった)は「東箱崎小学校」に変わってしまった(地下鉄の「箱崎九大前」はいまだ健在)。

(私が乗っていたころの西鉄電車系統図)

福岡の路面電車路線図

私の祖母(母方)の姉妹が、千鳥橋のたもとでタバコ屋を営んでいた。幼い私もそこにいたのだろう。タバコ屋から行き来する市電の風景をいまでも思い出す。祖父は国鉄マンとして人吉に移るまでは、香椎、佐賀、荒木などで勤務していた。身体を壊して熊鉄に移り、宇土の駅長となる。そのとき宇土から熊本まで国鉄で通勤していた親父と出会ったのが母のなれそめのようだ。

大都会と田舎が共存する「福岡」

私はてっちゃんではないが、それでも乗り物に惹かれるのは、幼少時の体験からだろう。小学生の頃の都城バスの旅、鹿児島市電の旅、これらはすべて博多とつながっている。「大都会」福岡。憧れは西鉄ライオンズや太平洋クラブといったプロ野球球団の存在にもあった。小学生の頃、周りは読売ファンばかりだったが、テレビでしか野球をみれないのだから仕方がない。

やがて自分が福岡の大学に行くことになるなど思ってもいなかった。そして、福岡が「田舎」のひとつに過ぎないことも。

(第1部おわり)

(これまでの寄稿は、こちらから)

寄稿者 岩下明裕(いわした・あきひろ) 北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授

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