【『不適切にもほどがある!』感想6話】価値観の変化を越えて問う人生の痛み

SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。

2024年1月スタートのテレビドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)の見どころを連載していきます。

かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。

本人にはとても話せない、さしさわりだらけの未来の話題で、小川市郎(阿部サダヲ)が娘に語ったのは、三原じゅん子が国会議員になった話と、加藤茶が年の差婚をしたことと、萩本欽一が老齢で大学に入ったこと。

浮き足立つその場が、それで一旦落ち着いた。

現実にも気まずい会話の場で時々そういうことはあるから、改めて芸能というものが人々の人生に果たす機能について考えた。

このドラマで、クドカンは昭和と令和のテレビを描きながら、時代を超える芸能そのものの役割についても描こうとしているように見える。

昭和61年を生きる小川は『地獄のオガワ』とあだ名をつけられる中学の体育教師。

妻を早くに亡くし、高校生の娘の純子(河合優実)と暮らしている。

昭和の男の典型のごとく、心根は熱いがデリカシーもリテラシーもない。

その小川が偶然令和にタイムスリップしてしまう。不適切な言動で騒動を起こしつつ、その明快さが逆に受けてテレビ局でアドバイザーを務めることになる。

そんな中で、小川は自身の孫にあたる犬島渚(仲里依紗)と出会い、自分と純子が9年後、阪神淡路大震災で死亡していることを知ってしまうのだった。

一方、小川とは逆に、令和の社会学者・向坂サカエ(吉田羊)と息子のキヨシ(坂元愛登)は、昭和にやってきて小川の部屋に滞在している。

キヨシは不登校でまだ出会ったことのない同級生・佐高を気に掛けていた。

前回、小川本人と純子の寿命が明らかになってしまうという衝撃の展開とともにドラマは折り返しを迎えた。

それを受けて、6話ではいずれ来ることが分かっている悲しみにどう向き合うか、解決できない問題をどう受け止めるかということが、悲喜こもごも交えながら描かれていた。

とりわけ印象深いのは、「どうなるか分かってる人生なんて、やる意味あるのか」と、娘の運命を嘆いた小川の言葉と、それに応えた「今考えてもその時考えても分からないなら、今の日々を楽しく、好きなように生きたらどうだろう?」というサカエの言葉だった。

そこにはなぜ生きていくのかという、人生そのものへの問いかけがあり、解決できない不条理や痛みを抱えて生きる人に対し、極力誠実であろうとする返答がある。

それにしても、小川とサカエのひそひそ話の最中に寝ぼけて現れた純子は何も聞かなかったのだろうか。

純子は、令和で娘の天命を知ってもしばらく知らないふりを通した、小川市郎の娘である。

気っぷのよさも愛情深さも、それを素直に言えないところも、小川から受け継いだ娘である。本当に小川とサカエの態度から何も察しなかったのかは、この先に向けて気になるところだ。

知ってしまった娘の寿命に親としてどう向き合うか。胸に迫る展開ではあったが、宮藤官九郎らしく容赦ない笑いと心が緩むような優しいエピソードも随所に散りばめられている。

令和で制服姿の純子を見て「あばずれてる!」と感極まって泣くゆずる(古田新太)の姿にはもう錦戸亮が重なって見えるし、半ばオワコン化しつつあるベテラン脚本家の代表作に、ギャングが暗躍する公園が舞台のドラマを自虐気味に挙げるところも容赦ない。

そして、自分が母の寿命を縮めたのではないかという不安と、シングルマザーの道を選んだのは正しかったのかという迷いに揺れる孫の渚が、純子の率直な言葉に救いを得るラストの3分は、思わず目頭が熱くなった。

張りめぐらした伏線の鮮やかな回収もクドカンだけれども、不意打ちでこういう優しさを仕掛けてくるのもまた、クドカン作品の魅力である。

目下、このドラマでは柔らかいがどこか息苦しい令和の世を、昭和の明快さで解決する展開が目立つ。

けれども令和の柔らかさが、昭和の野蛮さで傷つく誰かを包んで救うことだってあるはずだと思う。

見た目は昭和のヤンキーだけど、心は令和の柔軟さを持ったままのキヨシは、学校から弾かれた同級生とどんなやりとりを交わすのか。

チェーンロックを外した向こうには、何があるだろうか。

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[文・構成/grape編集部]

かな

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