平安時代に「罪を犯したら」どうなったのか?人権以前の時代に人々が恐れたものとは【大河ドラマ『光る君へ』#9】

*TOP画像/まひろ(吉高由里子)と藤原道長(柄本佑) 大河ドラマ「光る君へ」9回(3月3日放送)より(C)NHK

紫式部を中心に平安の女たち、平安の男たちを描いた、大河ドラマ『光る君へ』の第9話が3日に放送されました。

いよいよ「謎の男」が本領発揮、恋のキューピッドとして活躍するも…

ヒロイン・まひろ(吉高由里子)の相手役・道長(柄本佑)に負けず劣らずの人気を誇るキャラクターは、直秀(毎熊克哉)という散楽の演者です。彼は第3話で「謎の男」と称された本作ならではのオリジナルキャラクター。直秀は“少女漫画”のようなストーリーに本作を仕立てることに一役買い、まひろと道長の関係性を取り持つ役割も担っています。SNSでは直秀を“恋のキューピット”と称える声も多く、放送終了後は直秀の話題で毎回盛り上がりを見せています。

直秀は藤原家を散楽でおもしろおかしく取り上げ貴族に対して敵意を抱いているものの、道長には好意的な感情を抱いているようです。直秀には人間の本質を見極める力があり、道長が他の貴族とは違うことに気付いているのでしょう。本作において道長は幼い頃から権力拡大にどことなく無頓着という、藤原三兄弟の中でも稀有な存在として描かれています。さらに、直秀を庶民だからといって格下に見るようなことはしません。それどころか、彼を“友人”として認めています。

しかし、直秀は散楽の演者だけでなく、盗賊としての顔も持ちあわせていたのです。彼は貴族から金銭的価値のある物を盗み、貧しい庶民に分け与えていました。直秀の盗みは貧しき同胞への思い遣りあふれる行為であるものの、彼の行為が犯罪であることには変わりありません。

それでも、道長は取り押さえられている直秀らを前にして「手荒なまねはするな この者たちは人をあやめてはおらぬ 命まで取らずともよい」と即座に命じます。さらにその後、「誰も傷つけておらぬゆえ 早めに解き放ってもらいたい」という言葉を添え、役人に心付けを渡しました。

最悪な事態。実は「ひとりぼっち」な道長の気持ちも描き出されていく

直秀の処遇を寛容にと頼む道長(柄本佑) 大河ドラマ「光る君へ」9回(3月3日放送)より(C)NHK

しかし、道長の配慮が仇となり、直秀ら一座は命を奪われる結果になりました。盗人はむち打ちくらいで許されるのが常であるものの、道長の取り計らいが悲劇をうみだしたのです。

道長は直秀が流刑になると聞かされており、かつ卯の刻に獄を出るという誤った情報を伝えられていました。これについては、道長に対する裏切り行為なのか、伝達ミスなのか真相は定かではありません。

道長には兄たちやメンズトークができる藤原公任(町田啓太)ら友人がいます。しかし、まひろに「信用できる者なぞ 誰もおらぬ」「親兄弟とて 同じだ」「まひろのことは信じておる。直秀も」と胸の内を伝えているよう、ひとりぼっちの世界にこれまでたたずんでいました。彼はようやくできた心の友・直秀のために良かれと思って振るった権力のため、その命をうばってしまうという最悪な事態をまねいたのです。道長が関与しなければこれほどの事態にならなかったことは、本人も自覚しているように確かでしょう。

直秀(毎熊克哉)に手を添える道長(柄本佑) 大河ドラマ「光る君へ」9回(3月3日放送)より(C)NHK

野生の鳥のように自由に飛びまわる直秀は本作における自由の象徴”のような存在です。そのような存在の彼は役人の私情が込められた判断、あるいは一人の権力者(道長)による命令に対する解釈の誤りによって命をうばわれました。身軽で身体能力が優れており、利発な直秀ですが、彼のような存在でも世に簡単に呑み込まれるという社会における歪みの深刻さがうかがえます。また、秩序に従わない生き方をする者は葬られる、つまり生存できないという社会を彼の死は表しているとも解釈できます。

直秀は散楽で貴族を笑いで吹き飛ばし、貴族の持ち物を貧しい人に分け与えるなど、庶民の味方であり、貴族の敵という立ち位置にありました-残された道長とまひろに直秀の思いや信念はどのようにつながっていくのか。彼の存在は今後の展開にも大きくかかわっていくはずです。

平安時代に「罪を犯したら」どうなったのか?人権以前の時代に人々が恐れたものとは

当時において宮中や貴族の屋敷に強盗が入り込むことは珍しくなかったようです。強盗は銭、絹織物、布類、太刀、弓、馬、米、紙、などを盗んでいたことが記録として残っています。当時は完全なる貨幣経済ではなく、貴族は“給与”として着物や米などを受け取っていたため、強盗のねらいもそうしたものでした。

平安時代には強盗だけでなく、海賊行為稲の刈り“盗り”など野蛮な事件も多発。しかし、約350年にわたり、天皇の命令による公的な死刑は行われませんでした。それは、人権意識の高さというよりも、死を穢れと結び付けていたことや処刑した人が怨霊となり現れることを恐れていたことに関係しています。

死刑に相当する罪を犯した人は流刑という処罰を受けました。流刑には近流、中流、遠流の三種類あり、犯した罪の重さによって流される先が決まります。近流は越前(福井県)、中流は伊予(愛媛県)、遠流は佐渡(新潟県) や土佐(高知県)が多かったようです。

また、罪を犯すと獄舎に入れられることもありました。獄舎の環境は悪く、水も飲めないような場所でした。このため、体調を崩す人も多くいたと伝わっています。

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参考資料

・渡邊大門、 かみゆ歴史編集部「平安時代と藤原氏一族の謎99」

・繁田信一「平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職」

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