教養としてのポップミュージック【80年代にアメリカで成功した多国籍アーティスト】TOP10  アメリカのヒットチャートを席巻した多国籍アーティストをランキングで紹介!

教養としてのポップミュージック vol.4 全米チャート制覇!80年代にアメリカ進出を果たした多国籍アーティスト列伝

多くの偉大な才能が国境を越えてやって来る米国市場

どんな分野、どんな業界でもきっとそうだと思うが、世界で最も優れた才能は、世界で最も大きな市場に集まるものである。経済・ビジネスの面で言えば、世界最大の市場がGDP(国内総生産)ランキングで断トツ1位の米国なのは間違いないので、優秀なビジネスプロフェッショナルの多くは米国に向かうことになる。

具体例を挙げると、マイクロソフト会長兼CEOのサティア・ナデラ、アルファベットと子会社グーグルのCEOを兼任するサンダー・ピチャイはどちらもインド出身だし、テスラやスペースXのCEOを務めるイーロン・マスクは南アフリカの出身である。

世界的な活躍という点で、多くの日本人にとって馴染みがあるのは、おそらくアスリートだろう。NPB(日本野球機構)のトッププレーヤーが米国を目指し、Jリーグのトッププレーヤーが欧州を目指すのが当たり前になって久しいが、こういった傾向は、当事者の自己実現欲求の観点からも、経済合理性の観点からも、極めて自然なことである。

米国出身以外のアーティストが放ったヒット曲10選

これと同じことは、ポップミュージックの世界にも当てはまる。最大の音楽市場である米国には、ザ・ビートルズの例を挙げるまでもなく、古くから多くの偉大な才能が国境を越えてやって来たものだ。最近はその傾向がより顕著で、全米シングルチャート(Billboard Hot 100)の上位にスペイン語や韓国語の楽曲が入っているのが、すっかり珍しいことではなくなった。

米国の音楽市場がこれまでどんな外国人アーティスト、海外作品を受け入れてきたかは、国内の人種別人口比率とも大いに関係している。例えば、1980年代には全人口の80%近くもいた白人が、今では60%以下にまで下がってきた。その代わりに増えたのがヒスパニック(主にスペイン語を話す中南米出身者)とアジア系で、そのことがヒットチャートにも如実に表れている。

そこで今回は、米国から見た外国人、即ち米国出身以外のアーティストによる1980年代前後のヒット作10曲をピックアップしてみたい。これまでに僕はリマインダーのコラムの中で、米国の音楽市場の多様性について人種・民族の観点から何度か言及してきたが、今回は国籍・出身地を軸に当時の市場の状況を俯瞰できればと思う。

【第10位】アバ「ザ・ウィナー(The Winner Takes It All)」

スウェーデン史上最も成功したアーティスト。この後期を代表する名バラードは、アルバム『スーパー・トゥルーパー』に収録。全盛期だった1978年の年間総収入は1,600万ドル(当時の為替レートで換算すると約30億円)で、ボルボ(スウェーデンの自動車メーカー)より外貨を稼いでいると言われていた。その頃のスウェーデンにおけるアバの存在を現代に例えるとしたら、韓国におけるBTS、もしくはそれ以上ではないだろうか。

【第9位】ヨーロッパ「ザ・ファイナル・カウントダウン」

スウェーデン出身のハードロックバンドで、北欧メタルの始祖とも言われる。全世界で650万枚を超えるセールスを記録したサードアルバム『ザ・ファイナル・カウントダウン』に収録。実は、デビュー直後には既に地元スウェーデンや日本のロックファンの間で火が点いていたが、この曲によって世界的にブレイクした。2022年には、このミュージックビデオがYouTubeで再生回数10億回を突破した。

【第8位】ネーナ「ロックバルーンは99(99 Luftballons)」

西ドイツ(現:ドイツ)で結成した5人組バンド。アルバム『プラスティック・ドリームス(99 Luftballons)』に収録。東西冷戦の最中、ギタリストのカルロ・カーゲスが、西ベルリンで行われたザ・ローリング・ストーンズのライブで数百個の風船が放たれる演出を見て「これがベルリンの壁を超えて飛んで行ったら、どうなっちゃうんだろう」と思ったところから、この曲が生まれたと言う。ドイツ語の楽曲が米国でヒットするのは珍しいが、英国では英語バージョンがナンバーワンになった。

【第7位】ミリ・ヴァニリ「ガール・ユー・ノウ・イッツ・トゥルー」

西ドイツのディスコバンド、ボニーMの創始者フランク・ファリアンが、2人の黒人クラブダンサーをフロントマンにしてミュンヘンで結成したユニット。全世界で800万枚以上を売り上げたデビューアルバム『オール・オア・ナッシング』に収録。1989年度のグラミー賞で最優秀新人賞(Best New Artist)を受賞したが、後に2人が実際には歌っていなかったことがバレて賞を剥奪された。今では「史上唯一、グラミー受賞を取り消されたアーティスト」として記録(記憶)されている。

【第6位】ロクセット「ザ・ルック」

スウェーデン出身の男女2人組。アルバム『LOOK SHARP!』に収録。スウェーデンに留学していた米国人学生が地元のラジオ局に紹介したことが “きっかけ” となって、あれよあれよと言う間に全米シングルチャートの1位を獲得した。それ以降も3曲のナンバーワンヒット、5曲のトップテンヒットを持ち、スウェーデン出身アーティストとしてはアバに次ぐ成功を収めたと言われている。

【第5位】a-ha「テイク・オン・ミー」

ノルウェー出身の3人組のデビュー曲で、いきなり全米1位、全英2位の大ヒットを記録した。ファーストアルバム『ハンティング・ハイ・アンド・ロウ』に収録。ミュージックビデオの中で、ボーカリストのモートン・ハルケットが壁に身を投げ、鉛筆スケッチの中から実世界へジャンプする映像は、皆さんの記憶に残っているのではないだろうか。一発屋の印象があるが、意外にもこの曲以外に8曲の全英トップテンヒットを放っている。

【第4位】スターズ・オン「ショッキング・ビートルズ45」

オランダ発のプロジェクトによるザ・ビートルズの楽曲を中心としたメドレー。本家そっくりの歌声を当時大流行のディスコビートに乗せてリミックスする、という手法で一世を風靡。シングル・ヒットに偏らない選曲と合わせて、当時の僕にはツボだった。この後にアバ、スティーヴィー・ワンダー、ザ・ローリング・ストーンズなど様々なバージョンが次々にリリースされたが、結局ヒットしたのはこのザ・ビートルズのメドレーだけだった。

【第3位】ファルコ「ロック・ミー・アマデウス」

オーストリア出身のシンガー。アルバム『ロック・ミー・アマデウス 〜FALCO 3〜』に収録。18世紀の大作曲家モーツァルトの生涯を英語とドイツ語を交互に操ったラップで皮肉交じりに表現した様は秀逸で、これがRUN DMC「ウォーク・ディス・ウェイ」より前にリリースされたかと思うと驚きである。映画『アマデウス』が1985年のアカデミー賞を席巻した直後だったこともあり、世界的な大ヒットとなった。

【第2位】シネイド・オコナー「愛の哀しみ(Nothing Compares 2 U)」

アイルランドの歌姫と言われたが、後年は活動家のイメージが強いかもしれない。この曲はプリンスのカバーで、米英を含めたほぼ全世界のヒットチャートで1位を獲得した。アルバム『蒼い囁き(I Do Not Want What I Haven't Got)』に収録。ところで、クレジットされていないので僕も知らなかったのだが、この曲のバッキングトラックは、プロデューサーのネリー・フーパーに頼まれて屋敷豪太が打ち込みで作ったのだそうだ。

【第1位】U2「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」

アイルランドを代表するロックバンド初の全米ナンバーワンヒット。1987年度のグラミー賞で最優秀アルバム賞(Album Of The Year)を受賞した『ヨシュア・トゥリー』に収録。今回のランキングでは、多くのアーティストに少なからず一発屋感、色物感が漂う中で、このバンドの本物感は他を圧倒していると思う。この数年前から欧州やオーストラリアでは既にその地位を確立していたが、本作で完全に世界的バンドになった。

今回は、米国の多数派であるアングロサクソン系白人とルーツの近い人が多い英国、カナダ、オーストラリアといった英連邦(Commonwealth of Nations)各国はあまりにも数が多くてキリがないので、今回はランキングから外すことにした。

また、今回選んだ10曲の他にも、ギリシャ出身ヴァンゲリスの「炎のランナー(Chariots Of Fire - Titles)」やチェコスロバキア(現:チェコ)出身ヤン・ハマーの「マイアミ・バイスのテーマ(Miami Vice Theme)」といったインストゥルメンタル楽曲もシングルヒットしているので、ここに付け加えておきたい。

カタリベ: 中川肇

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