小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=100

 今年の全伯短歌大会に父は右の短歌を投じた。何故「吾のみの惨」か、そこに具体性がないので点稼ぎにはならなかったが、父がそう歌わずにはいられなかった心の逡巡が私にはよく解るような気がする。父は多くを語らない性格で、ことに母の病気がちな日々を他人にはおろか、親戚の者にも余り話さなかった。母を病身だと呼ぶのは母に対してばかりでなく、父自身も惨めになりがちだったから言葉に出さなかった。しかしその沈黙も限度にきた。親戚の者にだけでも知らせよう、と父は一番近くに住む母の姉に知らせた。伯母は泣きながら、次々と弟たちに母の病気を伝え、遠方の兄に電話した。翌日からひっきりなしに見舞い客が増えた。父が極力そっとしておいてやりたいと願ったのも水の泡となった。
 父が母の気持ちや親戚を煩わさぬために慮った行為が、ことごとく反対の意味に取られ、父は母を見殺しにするつもりだ、なぜもっと早く病名を知らせなかったのか、初期だったら治療の方法もあったろうに、などと憎まれ口を散々たたかれた。母の兄弟たちは物事を客観することをせず、主観で処理しようとするため、事ごとに父と正面からぶつかった。父は精一杯のことをしてきたつもりだ。母の病名を知らせなかったのは自分の一存だが、初期だったら治療の方法もあったろうに、というのは当てはまらない。最初の手術の時は、医師も初期だと見なし、手術後、五年、十年生き延びる人はざらにいると言われた。五年、十年先の寿命を詮索して周囲に心配をかけたくなかったので、自分一人の胸に秘めていた。
 母は若い頃からどれほど病弱であったか、周囲は知らぬが、父がもし暴君であったら、母は三〇代を出なかったであろう。その頃から一々他人に心配をかければ、彼らは父の弱さに辟易し、見向きもしなくなっていただろう。親戚に急激なショックを与えはした。また、他の医師は母のX線写真を観て、どうして胃を全部切除しなかったのか、もっと大きく抉るべきだったろうにとも言った。医師としてのライバル意識が働いての言葉かもしれない。結果論としては何とでも言えることだが、母の胃は普通人の三倍にも拡張していたから、大きく取り除いても、まだ残す余裕があったのではないかと思う。V医師は外科医として有名な人で、それほどのへまをやったとは思えない。自分の姉妹なら投げ出したくなる些細なことを、母の親戚のために尽している父の行動は、傍目にも痛いたしかった。
「パパは見かけと違い、ずいぶん面倒を看てくれているわ。今度快くなったらうんと働きたい」

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