東京マラソンで注目されたペースメーカーと五輪代表「待ち」の姿勢、過去にもあったドタバタ劇

Ⓒゲッティイメージズ

パリ五輪代表最後の1枠は大迫傑

パリ五輪男子マラソンの代表選考が終わった。選考最終レースとなる東京マラソン(3月3日)の結果、代表の最後の1枠は大迫傑(ナイキ)に決まった。

東京マラソンでは、日本陸連の定めた設定記録(2時間5分50秒)を破った選手の中で最速の選手が代表になるか、設定記録を上回る選手がいない場合にはMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)3位の大迫が選ばれるという「2択」の状況になっていた。

結果、日本選手トップの西山雄介(トヨタ自動車)が2時間6分31秒に終わったため、大迫が代表に内定した。

今回のレースで注目されたのは、ペースメーカーの存在だろう。絶好のコンディションながら、ペースメーカーが設定通りに引っ張らなかったことが設定記録突破に至らなかった一つの要因と報じるメディアもあった。

ただ、日本陸連の高岡寿成シニアディレクター(SD)が「レースは生ものなので、こちらが思っている通りには進まない。その中でどう選手が考えて対応するか」と語ったようにペースメーカーを理由にできないのも事実だ。

遅すぎたり、暴走したりするペースメーカーも

過去のレースでも、ペースメーカーを巡るドタバタ劇があった。実は高岡SDもその渦中にいたことがある。

2004年アテネ五輪の選考会だった2003年の福岡国際マラソンだ。当時、日本記録を持っていた高岡SDはこの福岡国際マラソンで代表入りを狙っていたが、ペースメーカーの設定は高岡SDにとっては遅いものだった。

「ペース設定は一番速い選手に合わせるべき」と所属チームの監督が記者会見で主張したが、ペースは変わらなかった。レースは高岡SDが3位に終わり、五輪代表入りを逃した。

2011年世界選手権の代表選考会だった2010年の福岡国際マラソンでは、ペースメーカーが暴走した。30キロまで一定のペースで展開される設定だったが、ペースメーカーの1人が15キロ過ぎからペースを急激に上げ、誰もついていけなくなった。

結果、30キロ過ぎに赤旗を持った係員に制止されるまで、ずっと先頭を突っ走った。

「待ち」で落選したアテネ五輪の高橋尚子

また、今回の代表選考で注目されたのは、大迫が「待ち」の姿勢でMGCファイナルチャレンジの3レースを走らなかったことだ。これまでの五輪選考会でも「待ち」の姿勢では、悲喜こもごもの姿があった。

「待ち」の姿勢で代表に選ばれた例としては、2004年アテネ五輪の油谷繁、2008年北京五輪の尾方剛が思い出される。この2人の共通点は、五輪前年の世界選手権でともに5位入賞している実績と、所属チームが中国電力だったことだ。

当時の五輪選考会は、五輪前年の世界選手権と国内3レースの計4レースから3人を選ぶというものだった。油谷も尾方も前年の世界選手権を走っているので厳密な意味で「待ち」ではなかったが、国内レースは走らなかった。この2人は結果として「吉」と出た。

「待ち」が実らなかったのが2004年アテネ五輪選考会の時の高橋尚子だった。

選考会の2003年東京国際女子マラソンで優勝できなかったものの、2000年シドニー五輪金メダルの実績もあることから、アテネの代表に選ばれるという見方があった。

一方で、もう一度選考レースを走って自力で決めるべきだという意見もあったが、高橋は「待ち」の姿勢をとった。結果は落選。当時は大きな議論を巻き起こした。

過去の選考を巡るドタバタから、日本陸連は東京五輪からMGCのシステムに変更した。それでも、選考に関しては議論が絶えない。それだけ、日本ではマラソンの五輪代表に興味があるとも言える。



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