『すべての夜を思いだす』めぐりあう時間たち、火を絶やさない女性たち

『すべての夜を思いだす』あらすじ

高度経済成長期と共に開発がはじまった、東京の郊外に位置する街、多摩ニュータウン。入居がはじまってから50年あまりたった今、この街には静かだけれど豊かな時間が流れている。春のある日のこと。誕生日を迎えた知珠は、友人から届いた引っ越しハガキを頼りに、ニュータウンの入り組んだ道を歩き始める。ガス検針員の早苗は、早朝から行方知らずになっている老人を探し、大学生の夏は、亡くなった友人が撮った写真の引き換え券を手に、友人の母に会いに行く。世代の違う3人の女性たちは、それぞれの理由で街を移動するなかで、街の記憶にふれ、知らない誰かのことを思いめぐらせる。

音の形・記憶の形


途切れ途切れになっている子供の頃の記憶が、本当に自分の体験なのか、よく分からなくなることがある。視聴覚を含め、物の手触り、そのときの空気の匂い等、手掛かりとなりそうな記憶の欠片は確かにあるのだけど、一体全体なぜ自分がそのシチュエーションにいたのか、さっぱり思い出すことができない。その瞬間の記憶は強く残っているのに、付随する記憶がまるで思い出せない。もしかしたらこの記憶は大人になってから夢の中で見たものであって、実際には体験してないのかもしれない。まったく体験していないことを体験したのだと、ただただ勝手に思い込んでいるだけなのかもしれない。自分の中だけに広がる記憶の捏造。それはときに大いに不安にさせるが、同時に楽しくもある。あり得たかもしれない世界への可能性が開かれるような気がするからだ。

多摩ニュータウンを舞台にする清原惟監督の『すべての夜を思いだす』(22)は、夜明けの風景から始まる。まだ眠りから目を覚ましたばかりの街。歩行者のいない大通り。無人の公園。鳥の声。木々たちのざわめき。団地。マンションの前を掃除する人。少しずつ時間が経過していく。やがて陽光が降り注ぐ公園で、若者たちが音楽を演奏する風景が捉えられる。朗らかな会話や音楽が消え、上空を飛ぶ飛行機の音が重なっていく。そして再び風に揺れる木々のざわめき・・・。

『すべての夜を思いだす』©2022 PFFパートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人PFF

本作において街の音は、ふっと現れてはどこかへ消えていく。音が“クローズアップ”され、シャボン玉が割れるように消えていく。街の音を聞いているだけで心地がよい。ここには街との調和がある。そして本作は街の音、音の振動が、いったいどこに消えていくのか?ということを探求しているように思える。ふっと現れてはどこかへ消えていく音の粒に形はない。それは朧気な記憶、本当に体験したかどうかさえ怪しい記憶の破片とよく似ている。

類似性を探す


初長編作品『わたしたちの家』(17)と同じく、清原惟はパラレルワールドを描いている。前作の舞台が家だったのに対し、今作は多摩ニュータウンという街が舞台になっている。メインの三人の女性たちは知り合いですらない。それぞれがそれぞれの事情を抱えこの街で生活している。ホンマタカシの撮った東京郊外の写真のような風景。かつて60年代の都市開発によって夢見られた街。どこも似たような風景と形容される街で、世代も違う彼女たちがすれ違う。清原惟はこの土地の類似性、三人の女性たちの類似性を探求していく。

着物の着付けの仕事を解雇された知珠(兵藤公美)。知珠はハローワークに通っている。ハローワークの男性職員は知珠に「主婦」の多い職場を紹介する。言葉遣いも柔らかく、良心的な態度で求人を提案してくれるこの相談員に悪意はない。ただ主婦ではない知珠にとって、相談員が無意識に放った「主婦」という言葉がひどく引っかかる。人によっては流してしまうかもしれない自分への分類。知珠のリアクションには、勝手に分類されてしまうことへの確かな抵抗が感じられる。このシーンには知珠のキャラクター、そして彼女がこれまでどのように生きてきたかが的確に表わされている。

『すべての夜を思い出す』は、リアクションの積み重ねを拾っていく映画でもある。控え目な第一印象を持ちつつ、物怖じせずにどんどん対象に向かっていくタイプの知珠は、この映画の持つ独特のユーモアをもっとも体現している。木の枝に引っかかってしまったバトミントンのシャトル。困り果てている子供たちを手助けしようと近づいていく知珠は、子供たちにほんのりと不信がられる。しかしこのシーンには愛すべき可笑しみがある。

『すべての夜を思いだす』©2022 PFFパートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人PFF

知珠が和菓子屋で名物「武蔵野日誌」を買って以前の職場の同僚と話すシーンに、この作品の女性たちの類似性が浮かび上がる。おもむろに半導体について語りだす知珠。「へぇー、そうなんだ」という合いの手となる言葉のクッションを入れ、知珠に対してどうリアクションをとればいいかを考える、このほんの少しの間(ま)に本作の妙がある。同様の瞬間はガス検針員の早苗(大場みなみ)とマンション住民の会話や、最近一人でダンスすることを趣味にしていると告白する大学生の夏(見上愛)と友人との会話にも表われる。

本作の登場人物たちは、相手の言葉をないがしろにしない。会話のかみ合わなさを肯定している。行方不明になった痴呆症の老人の言葉を何一つ否定せず、どこまでも付き添ってあげる早苗のように(徘徊老人をアッバス・キアロスタミ監督『ライク・サムワン・イン・ラブ』/12の奥野匡が演じている。ユーモラスな物悲しさを感じさせる見事な名演!)。知り合うこともない三人の女性たちの間に不思議な類似性が浮かび上がっていく。

火を絶やすな


立ち姿がとても美しい見上愛。彼女の演じる夏が自転車に乗り、薄手のアウターを羽織る瞬間。仕事中はいつも髪を留めている早苗が髪を下ろして登場する瞬間。『すべての夜を思い出す』には、記憶に残る思いがけない瞬間がいくつもある。本作にはホームビデオに記録された知らない誰かの思い出をデジタル映像に変換するシーンがあるが、三人の女性のそれぞれの仕草や佇まい自体がこの街の記憶の一部として記録されていくような感覚がある。この映画を思い出すとき、風のように颯爽と自転車で街を駆け抜けていく夏の姿をきっと思い出す。

映像や写真など記録として残されるものがある一方、記録として残されなかった感情に本作は価値を与えようとしている。清原惟は残されたものと残されなかったものを等価にしようと試みている。すべてはいまもどこかで存在するのだと。

夏の亡くなった友人は写真をよく撮っていたそうだが、本人が映った写真はほとんど残されてないという。夏は亡くなった友人と花火で遊んだ夜の記憶をたどっていく。召喚の儀式であるかのように思い出を再現する。花火の思い出を再現することにはどんな魔法があるのか?夏による儀式は、亡くなった友人の霊を召喚することよりも、止まってしまった時間と、ありえたかも知れない時間の間を線でつなごうとする儀式のように思える。繰り返される「火を絶やすな」という掛け声は、祈りの呪文のようだ。

『すべての夜を思いだす』©2022 PFFパートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人PFF

火を絶やすな。徘徊老人が自分の家だと言い張る家には、もはや誰も住んでいないようだった。家という建築物だけが時間が止まったように取り残されている。この家にガスの契約はない。しかしある日、早苗はこの家のガスメーターが動いているのを発見する。取り残された家は生きている。

火を絶やすな。知珠は絵葉書に記された、かつての友人の住居を訪ねる。この街の木々のざわめきが心地よければ、何かよいことが起こりそうな気がする。風の音は浮かれるような気分にさせてくれるときもあれば、喪失の影を招く不吉な音になることもある。本作の木々のざわめきの音は、その時々によって様相を変えていく。鈴の音にそれぞれの表情があるように、木々のざわめきにも表情がある。

火を絶やすな。三人の女性たちは知り合うことがない。しかしそれぞれが偶然に向ける視線によって彼女たちはこの街で交わっていく。視線によるリレー。記憶によるリレー。私たちの人生は選択の繰り返しだが、別の選択をした自分もこの世界のどこかに生きているはずだ。本作は記憶の中の人生、ありえたかもしれない人生、捏造された記憶、忘れられた記憶、そのすべての夜に光を灯す。『すべての夜を思い出す』は、火を絶やさないために人から人へと灯りをリレーしていく素晴らしく貴重な映画だ。「火を絶やすな」という呪文を大切に胸の中にしまっておきたい。

文:宮代大嗣(maplecat-eve)

映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。

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『すべての夜を思いだす』

3月2日(土)よりユーロスペース他にて全国順次公開中

配給:一般社団法人PFF

©2022 PFFパートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人PFF

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