『テッド ザ・シリーズ』神谷浩史×河西健吾が語る、日本語吹替版で楽しむコメディの魅力

あの口が悪くてどうしようもないアイコニックなテディベア、テッドの物語が戻ってきた。世界中を席巻した人気コメディ映画『テッド』が、前日譚ドラマ『テッド ザ・シリーズ』として1月11日からU-NEXTで独占配信されている。おっさんとおっさんテディベアの眼も当てられない日常が魅力的だった劇場版に対し、なんとドラマシリーズでは舞台を1993年に巻き戻し、彼らが高校生の時の様子を描く。

そして3月7日からは日本語吹替版が配信。吹替版だからこその楽しみ方や、映画版に続く本作の精神、90年代の思い出まで、テッド役の吹き替えを担当した神谷浩史とジョン役の吹き替えを担当した河西健吾に語ってもらった。

――まず、本作でそれぞれの役を演じられた感想から聞かせてください。

河西健吾(以下、河西):「どれくらいやっていいんだろう」、「でも台本に書いてあるから監修は通っているんだろうな、じゃあやり切ろう」などと考えながら演じました。“草”とか平気で言うんだとか(笑)。実際にやっちゃいけないじゃないですか。それを作品の中でやれるのは楽しいなって、個人的に思いながらやらせていただきました。

神谷浩史(以下、神谷):全く同意見です。楽しみながらやらせていただきました。エンタメなので、特にコメディやギャグの作品に常識なんかあるものかっていうのが個人的な意見でして(笑)。本作は知識と教養と常識を持っている人が観て「ひどいなあ、バカだなあ」って思いながら楽しむ作品だと思います。あくまで徹底的な常識を持ったうえで、そこからどれくらいズラしたら面白いのか。それが本作の楽しさだと思っています。その基準をしっかり持ったうえで臨まなきゃなと思っていたので、劇中で描かれることが当たり前だと思って演じては全くいなくて。「あ、常識からかなりズレている。そのズラし方をどうしたら日本語的に面白くなるかな」とアプローチをしながら、挑みました。「加減してこれくらいに収めたほうが面白い」とか、いわゆる常識みたいなものを加味するより、河西くんが言ってくれたように、思い切りやった方が「あくまで(劇中の言動は)非常識なんですよ」というアピールにもなるし、普段やれないことをやらせてもらっている点でも楽しめました。

――本作に参加するにあたって抱いた映画版『テッド』に対する印象は?

河西:実は映画版の『テッド』を観ていなくて。ただ吹き替えを有吉弘行さん、咲野俊介さんがされている情報だけは知っていました。テレビで流れていたCMだけでも結構攻めた内容だという印象を受けていたので、『テッド ザ・シリーズ』はもっと酷いことになっていくんじゃないかな」と思っていました。

神谷:僕は非常に楽しく観させていただきましたが、言葉を選ばずに言えば、下品で常識もない、どうしようもない作品だな、というのが素直な感想です(笑)。ただ、非常にアイデアがいいじゃないですか。純粋に愛を込めて願った結果として、大切にしていたテディベアに命が宿るって。ただそこから巻き起こる話が無茶苦茶で……本来だったら命が宿ったところを描くのだと思いますが、そこから平気で30年くらい経ったところからの話をするんですよね。30年も経つと特別な存在だったとしてもどうでもよくなっていて、テッドという存在を周知の事実としてみんなが認識している状況で、一緒に育った青年がどういう影響でこんな大人になってしまったのかを描いているのが面白かったです。ただ、続編はあまりにも下品すぎました(笑)。

――アニメーションの仕事に対し、吹き替えで感じる演技のアプローチの違いなどはどのようなところにありますか?

河西:アニメと吹き替えはやはりそもそもが違うのですが、役者さんが演技をされていて、かつ顔でもお芝居されているので、そこからは外れないようにした方がいいと思いつつ、やはり日本語で聞いていただくので、日本語で聞いた時に「原音だとこんなふうに言っているけどこうやった方がいいんじゃないかな」というアプローチの仕方はあるかなと思います。それは収録の時に試行錯誤しながらやりましたね。

神谷:アニメと吹き替えの一番大きな違いは、答えを持っている人がいるかいないかだと思うんですよね。日本で作っているアニメーションは監督が答えを持っているので、質問すればその監督から「こういう意図で作りました」と正解を教えてもらえるんですよ。だから正確な音が作れますが、一般的な海外作品を含めて、本作はセス・マクファーレンが監督で、なおかつテッドを演じているわけなので、セスが持っている答えがあると思います。しかし、我々はそれを聞くことができないんです。こちらでそれを想像しながら補っていくしかありませんが、あくまで日本語吹替版なので日本語のニュアンスでセリフを面白く伝えないといけない、というのが一番だと思っています。だから当然声質を似せたり、「ここのところはこういう芝居をしているので日本語でも合わせる時はこんなふうにはなります」と音の雰囲気で正解は出せるけど、「でもこっちの方が日本語的には面白いよね」みたいなことって結構あるんですよ。真面目な作品だとその許容範囲が意外と狭いかもなっていうのが僕の印象ですが、こういうコメディ作品はその許容範囲が結構広くなるんです。今回は「ちょっとだけニュアンスが変わっちゃうけど、こういう表現の方が日本語的に面白いよね」と結構攻められたので、やっていて楽しかったです。

ーー英語のギャグやジョークを日本語に落とし込む作業は難しいですよね。

神谷:その辺は音響監督さんに任せているので、「ここまで大丈夫ですか?」と聞きつつ、「やっていい」と判断されるので、そういった意味ではアニメーションを撮っているときよりは役に対する責任感がもう少しこちらに委ねられている感覚もありますね。

ーー役といえば、本作ではお二人ともなかなかに破天荒な役柄を演じられていますが、逆に共感できる部分などはありますか?

河西:小さい頃からそんなに交友関係が広い方ではなくて、どちらかといえばカーストで低い部分の生徒だったし、漫画を読んだりゲームをやったりアニメを観たりという学生時代を送っていたので、そういった部分ではジョンに近しいものを感じています。けど、先々のエピソードをご覧いただいたらわかると思うのですが、あそこまで破天荒にいろんなことをしでかしたことがないから、そこは「ジョンすごいな」って思いますね(笑)。

神谷:テッドと似ているところなんていっぱいあるし、似ていないところもいっぱいあります(笑)。彼は「酷いことを喋ってるなあ」という印象が当然あると思うんですけど、彼らにとっては割とそういうのが日常だと思うんです。みんなだって普段そんなに考えて話さないじゃないですか。日常を生きていて、言ってはいけない、やってはいけないことってもちろんありますが、全く関係ないところで喋っているのを切り取られて、「酷いことを言っている」とか「ダメなこと言っている」と指をさされること自体、よくある気がするんですよ。本人はそれをやってはいけない、言ってはいけないことをわかってはいるけど、一定の関係値やオープンじゃないシチュエーションであれば言うことって、平気であるはずなんですよね。その切り取られたものを見させられているのが本作だと思います。彼らにとってはあれが日常だから、特別変なことを言っているつもりはない。まあ「変なこと言っているな、俺たち!」くらいのノリはあると思うんです。はたから見ると悪ノリだけど、それが二人にとっての当たり前のノリだし、そういうのって僕らの中にも当然ある。僕と河西くんも二人で収録中に「このシーンマジひでぇな」「超面白い、まじ酷いと思う」とか話したりするんですよね。でもその話しているニュアンスだって、テッドたちが話していることと同じようなものだと思うんです。そういうのって全部、問題視しようと思えばいくらでも問題視できるので、そこの差かなと思います。テッドに対して一部、近しい部分っていうのは当然あるから全否定するつもりも、全肯定するつもりもないですね。

ーーそうですよね、みんなの心のどこかに小さなテッドがいると思います(笑)。

神谷:いると思います(笑)。

ーーテッドといえば、ジョンにとっては子供の頃からの相棒ですが、お二人にとっての“テッド”は何ですか?

河西:ああいうバカなことを言い合う友達はいましたが、それこそぬいぐるみや人形みたいなものは、僕はなかったんじゃないかな?

神谷:僕もないですね。テッドって、いわゆる子供の頃のイマジナリーフレンドが具現化したような存在じゃないですか。僕は本当にそういうのが全くなかったので、大人になって「イマジナリーフレンド」という単語を知って「ああそうか、そうやって架空の友達を作って相談したり、辛い時にそこに閉じこもって自分を癒す人もいたんだな」と、結構カルチャーショックだったんです。『テッド』もその延長線上にある話だと思うから、僕としてはすごく新鮮な感覚でした。

ーー本作は90年代が舞台となっており、登場するゲームや劇中のファッションから漂うその空気感が魅力の一つです。お二人にとって印象的なあの頃の思い出は何でしょう?

河西:僕、作品の舞台となる1993年当時は8歳とかなんですよね。小学生なので正直全然記憶がないんですよ(笑)。それこそ物心がついた頃には家にファミコンとかがあったので、それで遊んでいました。家が自営業で喫茶店をやっていたものですから、『週刊少年ジャンプ』と『週刊少年サンデー』と『週刊少年マガジン』が毎週揃っている夢のような環境の中、それを読みながら過ごしていた記憶はありますね。

神谷:1993年当時、僕は養成所に通っていたんです。地元の茨城から吉祥寺まで、ドアトゥードアで2時間くらいかけて毎日通っていたのを覚えています。当時はゲーセンブームかつ格闘ゲームブームだったので、毎日のようにゲームセンターに通っていたし、それこそ自分がテリトリーにしている駅では「ここではこれ」と目的ごとに、どこのゲーセンに何があるかを全部把握していました。ただ、それからもう30年経って、ほとんどゲームセンターの文化がなくなってきちゃったから、「ここにゲーセンあったのにな」と思いながら街を歩くことが増えましたね。

ーーそういうの、なんだか切ないですよね。

神谷:しょうがないですけどね。僕はゲームが好きなので特にそういうふうに思います。だって一回100円でしょ? インベーダーの頃から、つまりこの50年くらいその価値が変わっていないって、怖くない!?(笑)そりゃあ難しいよ……。

河西:(笑)。

ーー最後に、改めて吹替版だからこそのポイントや魅力などを教えてください。

河西:吹替版は、やはり日本語ならではのニュアンスだったり面白さだったりあると思います。劇場版の『テッド』をご覧いただいた方々は「こういう過去があったんだね」と、新しい『テッド』の楽しみ方ができるんじゃないかなと思います。

神谷:圧倒的に吹替版で観た方が面白いと思います。海外作品、特にコメディは日本語吹替版の方が面白いと、僕は自信を持って勧められるので、本作もそのうちの一本だとは思います。ただ内容が……(笑)。万人向けではないのはもう間違いないですよ。これは圧倒的な常識と強要と知識を持っている人がご覧になって、「酷いな、バカだな」って思いながら観ていただくのが正しい見方だと思います。ただ物語としては友達のいない少年ジョンと、奇跡の存在のテッドの友情の物語ではあるので、そういう雰囲気で観ていると、たまに感動させられるし、「あ、すごいいい話だったじゃん」と思う部分もあるので、そういう感覚も楽しんでいただけたらと思います。

(取材・文=)

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