X線で観た宇宙に「S8緊張」は見られない 「eROSITA」が挑戦した宇宙の謎

宇宙には無数の銀河がありますが、その大雑把な配置は初期宇宙のわずかな“デコボコ”に由来すると考えられています。しかし、初期宇宙の観測結果から推定されるデコボコと、それより後の時代の観測結果から推定されるデコボコには大きな食い違いがあることが、現代宇宙論の大きな謎の1つとなっています。デコボコに関連するパラメーターは「S8」と呼ばれているため、これは「S8緊張(S8 tension)」と呼ばれています。

マックス・プランク地球外物理学研究所が主導するeROSITAコンソーシアムは、X線観測衛星「Spektr-RG」に搭載された観測装置「eROSITA」によるX線での宇宙の観測結果を元にS8やその他のパラメーターを計算しました。その結果、eROSITAによる後期宇宙のS8と、これまでに算出された初期宇宙のS8の値に大きな違いはなく、S8緊張は見られないことが分かりました。

【▲図1: 異なる距離での銀河団に含まれるガス (青色) を示した図。eROSITAの観測によってガスの分布が正確に分かり、S8などの重要なパラメーターが計算できました(Credit: M. Kluge, C. Garrel; Optical image: Legacy Survey DR10, X-ray: eROSITA)】

■初期宇宙とその後の宇宙にある「S8緊張」

宇宙を数十億光年のスケールで見ると、銀河やガスなどの物質の配置は均等ではなく、濃い所と薄い所に分かれた配置であることが分かっています。この物質密度のデコボコは、時間を遡ると初期宇宙に起源があると考えられています。今のところ観測可能な最も初期の宇宙は、宇宙誕生から約38万年後の時代であり、その頃のデコボコは、平均値と比べて、最大でもわずか10万分の1程度でした。しかし、わずか10万分の1程度であったとしても、物質密度の高い場所は重力が強いためにより多くの物質が集まり、その物質がさらに重力を強くするという連鎖的な現象が発生します。こうして生じた物質の塊が、やがて銀河やその集合体になったと考えられています。

この初期宇宙のデコボコは理論的にも予測されています。特に多く使われるのは「Λ (ラムダ) CDMモデル」と呼ばれる宇宙全体を記述したモデルです。ΛCDMモデルで予測される初期宇宙のデコボコと、そのデコボコから発生する銀河やガスの構造は、現実の宇宙と良く一致しています。宇宙全体に広がる物質密度のデコボコは「S8」というパラメーターを元に計算されています。

しかし、技術革新によって宇宙全体を観測できるようになると、S8の解釈に問題が生じるようになりました。S8を計算するには「初期宇宙を観測する方法」と「それよりも後の時代の宇宙 (後期宇宙) を観測する方法」の2つがあります。初期宇宙でS8を計算するには初期宇宙から放射される「宇宙マイクロ波背景放射」を観測する必要があり、これはESA (欧州宇宙機関) が2009年に打ち上げた宇宙望遠鏡「プランク」によって非常に解像度の高い観測結果が得られています。

一方で、後期宇宙のS8を計算するには、宇宙にある銀河やガスの配置を調べる必要があります。これには宇宙全体を撮影できる数多くの望遠鏡が使用されます。そして、初期宇宙のデコボコが現在の銀河やガスの配置を決定している以上、初期宇宙の観測結果から計算されるS8と、後期宇宙の観測結果から計算されるS8は一致するはずです。

ところが実際には、初期宇宙のS8と後期宇宙のS8には大きなズレがあり、これは技術的な問題や計算間違いなどで説明可能な誤差を大幅に超えています。この矛盾は「S8緊張」と呼ばれています。S8緊張が生じる理由は現在でもよくわかっておらず、現代宇宙論の大きな謎の1つです。単純な計測結果の誤りや計算間違いでは説明できないことから、ΛCDMモデルを少しだけ修正する試みから、宇宙のモデルを置き換える完全に新しい理論の提唱まで、様々な仮説が提唱されています。

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■不完全ながら高解像度なX線の “地図” を作成した「eROSITA」

【▲図2: X線観測衛星「Spektr-RG」に搭載された検出器「eROSITA」を強調した図(Credit: DLR German Aerospace Center)】

2019年、ドイツ航空宇宙センターとロシア宇宙科学研究所が共同開発したX線観測衛星「Spektr-RG」が打ち上げられ、観測が開始されました。Spektr-RGには、マックス・プランク地球外物理学研究所が開発した「eROSITA」と、ロシア宇宙科学研究所と全ロシア実験物理学研究所が開発した「ART-XC」が搭載されており、それぞれ異なる波長のX線を、今までのX線望遠鏡よりも高感度で観測することができます。

関連記事: X線観測衛星「Spektr-RG」がファーストライトを実施、大マゼラン雲を撮影 (2019年10月23日)

当初、Spektr-RGは7年かけて8回の掃天観測(宇宙全体を観測すること)を行う予定でした。ところが、2022年にロシアがウクライナへの侵略戦争を開始したために、同年2月26日から科学観測が中止され、掃天観測も4回で終了することとなりました。科学観測の終了前に収集できたデータは分析に回され、2024年1月31日には最初の掃天観測に基づく約90万個の天体のデータが収められた、宇宙の半分を収めたX線の “地図” 「eRASS1」が公開されました。

■X線で見た宇宙にS8緊張は見られないと判明

【▲図3: 今回の研究に使用されたX線による宇宙の “地図” (Credit: Jeremy Sanders, Hermann Brunner and the eSASS team (MPE); Eugene Churazov, Marat Gilfanov (on behalf of IKI))】

eRASS1の公開から約2週間後の2024年2月14日、eROSITAコンソーシアムはeRASS1を元に後期宇宙のS8やその他の宇宙に関する基本的なパラメーターのいくつかの計算を行った、新たな研究結果を発表しました。

その結果、一番注目されるS8の値は0.86であると計算されました。これは、プランク宇宙望遠鏡による初期宇宙の観測結果から得られる0.84に極めて近い値です。つまり、少なくともeROSITAによるX線で見た後期宇宙のS8と、初期宇宙のS8との間にS8緊張は見られないことを意味します。

また、宇宙全体に占める普通の物質と暗黒物質(ダークマター)の割合は29%であると計算されました。これも、よく知られている他の推定結果と矛盾しません。さらに、質量がゼロではない素粒子としては最も軽いと推定されるニュートリノの質量は、その上限が0.22電子ボルト未満(4×10のマイナス37乗kg、電子の質量の200万分の1以下)であると計算されました。この値は、宇宙を観測して計算された最も厳しい上限値であり、実験的に求められたニュートリノの質量上限にかなり近いものです。

「S8」「宇宙に占める物質の割合」「ニュートリノの質量」の3つのパラメーターを計算するには、eROSITAの精度の高い観測データが不可欠ではあるものの、これだけでは計算することができません。この3つのパラメーターは重力と密接な関係にあり、重力に関するデータがなければ計算ができないためです。

そこでeROSITAコンソーシアムは、「DES(Dark Energy Survey)」「HSC(Hyper Suprime Cam Survey)」「KiDS(Kilo-Degree Survey)」の3つのデータを元に、重力によって光が曲げられる重力レンズ効果を計算し、その結果とeROSITAのX線観測データを照らし合わせることで今回の計算を実現しました。

銀河団や銀河の間を満たすガスは総質量こそ膨大なものの重力が弱いため、重力レンズ効果もかなり小さなものとなります。こうした弱い重力レンズ効果の推定や、それを元にした分析研究は困難であるからこそ、eROSITAコンソーシアムの作業は注目される研究結果の発表につながったとも言えるでしょう。

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文/彩恵りり

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