戦地で娘の誕生を知るが、まな娘の顔を見ることなく戦死 太平洋戦争末期、硫黄島から届いた手紙、島根大生が調査

三谷禎二さんが硫黄島から送った手紙を調査した島根大法文学部の山口愛結さん(左)と若槻穂波さん=松江市西川津町、島根大

 太平洋戦争末期、日米で激戦となった硫黄島(東京都)に出征した男性が家族に宛てた手紙13通が大田市内に残り、島根大の学生の調査で詳しい内容が分かった。戦地で娘の誕生を知り、喜びが文面から伝わってくるが、まな娘の顔を見ることなく戦死。学生は家族を思う父の優しさに心を打たれるとともに、戦争の記憶を伝える大切さを訴える。

 男性は大田市出身の三谷禎二(ていじ)さん。妻・陽子さんと結婚して約半年後の1944年春、召集されて硫黄島に行き45年3月に戦死した。手紙は禎二さんが陽子さんや父親らに宛て、娘の原幸子さん(79)=大田市鳥井町=が保管してきた。原さんは硫黄島の戦いを調べる島根大法文学部4年の若槻穂波さん(22)と、3年の山口愛結(あゆ)さん(21)に、参考にしてほしいと手紙を提供した。

 44年7月に陽子さんの妊娠を知った禎二さんは、手紙に「大喜びで楽しみにまって居(い)る」とつづった。「暑くて毎日苦しい事だろうと思ふが何分気をつけて立派に育てて欲しい」と、体調を気遣うことも忘れなかった。

 同年10月30日に幸子さん誕生の報を受け、「永い間ご苦労だったけれども無事出産出来ておめでとう 心からお祝いとお礼を云ふ」「唯一の楽しみに便りをまって居た」としたためた。

 硫黄島で本格的な戦闘が始まった45年2月を最後に、禎二さんからの連絡は途絶えた。最後の手紙には「幸子もだんだん可愛(かわい)らしく生育して行くことゝ思ひます 親類その他に特別変(かわ)つたことはありませんか」と記されていた。戦況悪化のためか陽子さんではなく父親など家族に宛てた。

 家族は3月7日に幸子さんの写真を硫黄島に送ったが、禎二さんの所属部隊は8日に壊滅したとみられ、手紙は届くことなく返ってきた。

 幸子さんは禎二さんの手紙から「誕生を喜んでくれたことが存在を認めてくれたようで心に染みる」と話す。半面、娘に会えなかった父の無念を想像すると心が痛む。島根大の山口さんは戦争の記憶の継承が重要と強調。「身近な地元に関する資料を読み解く意義は、平和の尊さに共感し自分ごととして考えることにある。次世代に伝えたい」と述べた。

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