『ブギウギ』最終幕に向けて駆け足気味? SNS時代の“伏線”多用を考える

朝ドラことNHK連続テレビ小説『ブギウギ』第23週「マミーのマミーや」は盛りだくさんな内容だった。スズ子(趣里)が羽鳥(草彅剛)と共にアメリカに行き、娘・愛子(小野美音)のために豪邸を建てて三鷹から引っ越し、香川で父・梅吉(柳葉敏郎)を看取り、実の母・キヌ(中越典子)と再会し、愛子に「マミーのマミーや」と教える。こうして、スズ子が第5週からずっと引きずっていた家族の問題が解決した。

ようやくスズ子は、東京で自分と愛子の家を作り、自分が家長として自立したといえるのではないか。歌手としてもアメリカにまで行って、押しも押されもせぬ大スターとなった。三鷹時代はひっそりと暮らしていたが、新居では近所のお上品な奥様たちとの交流もするようになって……。これから新しい世界が開かれるのだろう。

最終回まであと3週しかないとはいえ、アメリカを1週間、引っ越しを1週間、梅吉1週間、キヌ1週間でも良かったようにも思う。それが長過ぎるならせめてそれぞれ2、3日間くらい費やすことは難しかったか。それぞれほぼ1日で、トピックス的なイベントだけが描かれ、それに対する様々な心情やイベントのディテールがかなりはしょられ、少し物足りなかった。

梅吉役の柳葉敏郎の明るく滅びていく笑顔、キヌ役・中越典子の、長年の苦労とスズ子への後ろめたさを抱えた表情、愛子役の小野美音の人間の死を理解できない幼さなど、俳優は健闘している。だからこそ彼らとスズ子の関わりをもっとじっくり見たかった。

すべてが駆け足に過ぎていくのは、速送りする視聴者の増加を考慮してのことだろうか。心情やディテールなんてどうせ飛ばされると制作者は思っているのか。そう思わせてしまう速送りに関する話題をいたずらに広め続けることはとても罪深いと思う。

昨今のドラマには、速送り現象のほか、SNSの反応を気にしすぎるきらいがある。朝ドラも例外ではない。たとえば第23週・第111話では、「ロングパス」と呼ばれ、SNSで好まれる手法を意識していると感じることがあった。懐中時計である。

第5週でスズ子がキヌからもらった懐中時計(スズ子の実の父親・菊三郎の形見)がとってあったのをスズ子が見つけ、愛子に託した。物語の前半に出てきてその後、まったく触れられていなかったことが、終盤、登場し、物語に重要な役割を果たすことがあって、その好例に『ひよっこ』のお重がある。

序盤でみね子(有村架純)の父(沢村一樹)が赤坂のすずふり亭にいつか取りに来るとお重を預け、そのまま記憶喪失で行方不明になる。そのまましまいこまれたお重が終盤、彼の記憶を呼び起こす役割を果たすのか……? という流れは鮮やかだった。ただしこれは、岡田惠和があらかじめ狙っていたものではなく、宮本信子にお重を使ってはどうかというアイデアをもらったものだったらしい。

『ブギウギ』の懐中時計も『ひよっこ』のお重のような、「ロングパス」効果を狙ったものであろう。制作側は時計をいつ出すか、そのタイミングを議論していたそうだ。

15年前、スズ子はキヌから時計を受け取ったが、その後、時計はいっさい登場しなかった。使うことも処分することもしないまま、長い年月、放置していたようだ。それがこのタイミングでひょっこり出てきたのは、引っ越ししたことで、荷物に紛れて出てきたのかもしれない。あるいは、存在はずっと認識していて、気にかけていたのだろうか。それはまあともかくとして、スズ子が持て余していた時計を愛子に渡すのは必然といえば必然である。愛子はキヌと菊三郎の血を受け継いでいるからだ。「愛子が持ってるのが1番ええ気がするわ」とスズ子はひとり納得して、愛子に時計を渡す。

スズ子は花田家と、血は繋がっていなくても家族。それは、第110話、梅吉の死の間際、スズ子とふたり、確信し合った。「東京ブギウギ」の替え歌「父ちゃんブギ」をふたりで歌うことで、その認識はすばらしいものに昇華した。

ただ、愛子にまでそれを強いる権利はきっとスズ子にはない。だから血のつながりを愛子に託したのではないだろうか。本当の父母との関係と、養父母との関係に悩んできたスズ子が、愛子を生んだことで、実際の父母とのつながりに折り合いをつけることができた。

時計はそのための絶好の装置である。

物語を創作するにあたって伏線という仕掛けを作るのはさほど珍しいことではない。が、ドラマでは近年、なんでもかんでも「伏線」とSNSで大騒ぎになるため、本来の「伏線」の意味とはズレた「後出し」のようなことが増えている。それが視聴者を喜ばせたい一心だと好意的に解釈しても、もはやインフレ状態だ。今回の懐中時計はそうなってしまった気がした。それよりも、注目したいのは、梅吉とスズ子とキヌの物語を繋いでいる、もっと重要なものがある。ツヤである。死ぬ間際に自分で「性格悪いやろ。醜いやろ」と自覚していた彼女の執念だ。

キヌとスズ子の確執は、ツヤが作りあげたものだ。赤ん坊を育てられないキヌからスズ子を預かって、そのまま愛情が深まり、連絡を断って自分の子にしてしまったことをツヤはスズ子に黙っていて、自分が死んでもスズ子に言わないでほしいと梅吉に頼んだ。

結局、スズ子は、ツヤと梅吉が実の親ではなかったことを知ってしまうが、ツヤの私情で、認識が歪められていたことには気づかないままなのである。ドラマではここを追求していないのだが、考えるとなんだか身震いがする。ツヤによって運命が変えられてしまった実の母娘がここにいるのだ。

だが、梅吉とスズ子がお互い、血の繋がりがないことを知っていても知らないふりしていたことはまぎれもない美談だし、梅吉が最後までツヤの業を守り抜いたことも、凄まじい愛だと感じる。そもそもツヤが自分で「醜い」と自覚していた自分本位の深い欲望だって、考えてみたら、スズ子が真相を知ったら傷つくかもしれないという思いやりでもあるだろう。

誰だって自分が1番大事で、自分のことでせいいっぱい。それでも不器用ながらに誰かを思いやることだってある。ツヤの愛憎入り交じったドロドロの思いは、梅吉の死とともに墓場に埋められて、もう誰も知ることはない。人間ってそういうもので、世界では、全部が全部、丸く収まらない。なんの解決もしないこともしばしばだし、シロクロつけずにこういうふうに水に流していくような、誰が悪いわけでもないのだというまなざしを貫くことは意義深いともいえるだろう。シロクロつけようとすると傷つけあってしまうから。

そこはがんばって受け入れたいのだが、愛子が亀をとても可愛がっていたので、亀を連れ帰ってほしかったと筆者は思った。亡くなった六郎(黒崎煌代)の形見として梅吉が大事にしていた、いわば花田家の魂・亀は香川に残し、いつでも戻って会えることにして、愛子には実母との関係性の象徴・懐中時計を託したという棲み分けはよく考え抜かれているとは思うが、亀と懐中時計と、ちょっと今週は欲張ってしまった感じがする。それもまた、どこか収まりの悪いことだって別に悪くないという『ブギウギ』節なのかもしれない。

(文=木俣冬)

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