若さへの執着が「豊かな老後」を遠ざける!? 定年後だから手に入る〈自分らしさ〉とは?

(※写真はイメージです/PIXTA)

ついつい人は自分が若かった頃を懐かしむものですが、「若さ」にしがみつこうとすると「豊かな老後」が遠ざかってしまいます。そこで本稿では、MP人間科学研究所で代表を務める心理学博士の榎本博明氏による著書『60歳からめきめき元気になる人「退職不安」を吹き飛ばす秘訣』(朝日新聞出版)から一部抜粋して、老後に「自分らしい生活」を手に入れるコツについて解説します。

若さに、しがみつこうとしない

平均寿命が80年の時代の60代は、人生の4分の3を歩んできたことになる。そんな60代の人にとって、遊びが生活そのものだった幼い子どもの頃や青春を謳歌していた学生時代はとても懐かしく、思い出すと心が温まるものである。受験勉強に苦しんだ頃のことも、今となっては懐かしい思い出であろう。

そうした懐かしい思い出に浸ることで、心のエネルギーを補給することができるし、それはストレス解消にもなる。その意味でも、心が疲れたときなどは、昔のことを思い出し、懐かしさに浸るのもよいだろう。

ただし、若かった頃を懐かしむのはよいが、若さにとらわれるのは禁物だ。

大学生を対象に行われた調査ではあるが、自分が若いことに価値を置いている者の方が、そうでない者よりも、高齢者に対する評価が否定的になりやすいことを示すデータもある。それは、考えてみれば当然だろう。

高齢者自身にしても、自分が年相応に成熟していることを肯定的にとらえていたり、経験が豊かなことや知識・教養が豊かなことを誇らしく思っていたりすれば、高齢者としての自分を肯定的に受け止めることができる。

だが、若さに価値を置き、成熟に価値を感じることができなければ、しだいに若さを失っていく自分を素直に受け入れることができず、高齢者としての自分を肯定的に受け止めることができないだろう。

容姿・容貌など自分の外見的魅力が支えだった人が、容色の衰えに脅威を感じ、自己イメージの揺らぎに苦しみ、何とか若さを取り戻そうと若づくりの装いをするなど、必死の抵抗をしている姿は痛々しい。

エリートビジネスパーソンとしてバリバリ働くのが支えだった人が、定年退職して社会的役割を失ったことで、まるで別人のように精気をなくしている姿を見るのは悲しいものである。

そのような人たちが悲惨なのは、若かった頃の自己イメージにしがみつき、高齢期にふさわしい自己イメージ、それも肯定的な自己イメージをもつことができないでいるからである。

テレビのコマーシャルでも、雑誌やネット記事の広告でも、若さにしがみつこうとする人たちをターゲットにしたさまざまな商品が宣伝されている。

そうした商品にも何らかの若返り効果があるのかもしれないが、いくら若さにしがみつこうとしても、若さを基盤とした自己イメージはいずれ手放さなければならない。蠟人形のように寿命が尽きるまで若さを保った老人などいないのだ。

若かった自分を懐かしむのはよいが、高齢期を生きる自分を肯定できるような自己イメージの形成がこの時期の課題であり、そのための自分磨きは、若かった頃の自分磨きとは当然ながら違ったものになっていくはずである。

これからは「今を生きる」ことができるようになる

そこで目を向けたいのが、退職後だからこそ手に入る大きな自由である。

これまでは日々ゆっくりと自分を振り返る間もなく、目の前の課題解決に向けて、あるいは課せられたノルマ達成に向けて、ひたすら走り続けてきた。そんな心の余裕のない生活から解放されるのである。

絶えず急かされている感じがあり、「今」をじっくり味わうことなく通り過ぎていくような毎日から解放されるのである。

定年退職というと、仕事を失う、職業上の役割を奪われるというように、なぜか否定的なイメージでとらえられがちである。でも、学生の頃、これから就職して何十年も働き続けなければならないと思うと憂鬱な気分になったりしなかっただろうか。そこまでではなかったという人も、自由を謳歌する学生時代が終わってしまうことに一抹の淋しさを感じなかっただろうか。

私たちは変化を恐れる。どんなに充実した生活をしている人であっても、惰性で動いている部分はあるものだ。そのため職業生活が終わりを告げる際には、これまで惰性で動いていた部分が失われ、生活のすべての部分を自分で組み立てていかなければならない。それには気力が必要だ。心のエネルギーを注入する必要がある。これまでのやり方を続けるわけにはいかない。それが不安をもたらし、ストレスになる。

私たちは、小学校に入学以来、時間割に縛られる生活が続き、就職してからは日々職務に縛られ、常にすべきことに向けて駆り立てられるような毎日を送ってきた。

それが当たり前だったため、すべきことが与えられ、それに向けて絶えず駆り立てられる生活にすっかり馴染んでしまった。

だからそんな生活が終わることに大きな喪失感を抱き、大いに不安になる。でも、よく考えてみれば、時間割やノルマに縛られない生活こそ、ほんとうに自分らしい生活と言えるのではないだろうか。そんな生活がようやく手に入るのである。

幼い子を連れてハイキングに出かける父親が、家から駅に向かう道で、トンボや蝶が飛んでいるのを見て追いかけたりする子に、

「電車に乗り遅れるから、そんなもの追いかけないで速く歩きなさい」

と急かす。この場合は、電車に乗って郊外にハイキングに出かけるという目的のために駅までの道を急いでいるので、急かすのもやむを得ないだろう。

だが、やはり幼い子を散歩に連れ出した父親が、アリが自分の身体より大きい虫の死骸を必死になって運んでいるのをしゃがんで眺めている子に、

「いつまで見てるんだ。もう行こう」

などと急かす。散歩というのは、何か目的があって歩いているのではなく、散歩自体を楽しむものだろう。この場合、急かす父親と興味のままに漂う子と、どちらが散歩を楽しんでいるだろうか。どちらが豊かな時間を過ごしているだろうか。

森鴎外が説く「今を生きる」ことを忘れた日本人の姿

アリの観察に夢中になっている子は、散歩そのものを思う存分楽しむことができている。それに対して、そんな子を急かす父親は、何か別の目的のために歩くことに馴染みすぎたため、散歩そのものを楽しむことを忘れてしまっている。

これでおわかりのように、退職後は、何からも追い立てられずに、「今」を存分に味わいながら大切に生きることが許されるのである。学校に入る前の幼児期以来、ほぼ60年ぶりに、地に足の着いた生活を楽しめるのである。

もはや時間に追われて暮らす必要などないのだ。時間とのつきあい方に関して頭を切り換えることができれば、これまで以上に豊かな時間を過ごすことができる。

時を忘れるような瞬間をもつことで、「今」を充実させることができるし、時間的展望をめぐる葛藤からも解放される。

時を忘れるような瞬間をもつこと自体が、悔いのない自分らしい過ごし方ができている証拠と言える。

文豪森鷗外は、日本人は「今を生きる」ということを知らないのではないかと、小説の主人公の日記の形をとって、つぎのように指摘している。

「いったい日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門をくぐってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり付くと、その職業をなし遂げてしまおうとする。その先には生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。現在は過去と未来との間に画した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。」

(森鷗外『青年』より)

榎本 博明

MP人間科学研究所

代表/心理学博士

© 株式会社幻冬舎ゴールドオンライン