小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=104

(一)

 

 ある企業の創立五〇周年記念式典に招待されて矢野浩二がブラジルから訪日したのは、桜の花も散った新緑の五月初旬であった。プログラムがぎっしり詰まっていて、この度は親戚、友人の訪問も略さなければならぬ状態であった。度たびの訪日なので失礼した方が先方に迷惑をかけずにすむと考えていたのも事実だ。

 ただ一人だけ、中津千江子という女性のことが心にあったので、せめてその安否を知って帰りたいと、ある夜、ホテルから電話した。

「どちらさまでしょうか」

 という声が、受話器を伝わってきた。千江子のようでもあり、少し若い女性の声にも聞こえた。矢野は突然の訪日を告げ、時間が取れればどこかで待ち合わせたいのだが、と洩らすと、

「母は昨年亡くなりました」

 沈んだ声が返ってきた。母と言ったのだから娘か、千江子の息子の妻であろうが、千江子の声によく似ているようでもあった。

「……」

 矢野はしばらく言葉につまった。

「母とは、どのような関係で……」

「同郷の者なんです。お母さんが奈良県のH村におられた頃、絵描きの田島という者を通じて一、二回お眼にかかったことがありました」

「あぁ、田島さんのことでしたら母がよく話してましたわ。自分の肖像画を描いて頂いたそうで」

 女の声は和んできた。鷹揚で甘ったるい声は、かつての千江子そっくりだ。しかし、千江子の死亡を知った今、訪問はためらわれたが、母親そっくりの声で話すその女性に会ってみたくもなった。

「できたら、お母さんの墓参りをさせていただきたいのですが」

「はい。田島さんという方に一度お眼にかかりたいと思っていましたので、その方も一緒にどうぞおいでになってください、お待ちしています」

 と言って、アドレスを教えてくれた。

 

 矢野が最初に訪日したのは、二〇年も前のことで、ブラジルへ移住してから三〇年の月日が流れていた。三〇年という歳月は冷酷なもので、矢野を連れて移住した両親は疾うに世を去り、のみならず、彼は妻も亡くしていた。

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