大きなスケールで描く、ごく個人的な変化 『スペースマン』にみる、SF的題材が人気な理由

テッド・チャンの短編小説を映画化したドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作『メッセージ』(2016年)、ブラッド・ピット主演のオリジナル映画『アド・アストラ』(2019年)、ケン・リュウの短編を原作とした日本映画『Arc アーク』(2021年)など、近年、大スケールのSF作品のなかで、その大掛かりな世界観とは裏腹に、個人的な体験や精神の移り変わりを繊細に表現しているものが目立ってきているように思える。

配信が始まった、アダム・サンドラー主演のSF映画『スペースマン』は、まさにそのような作品群の代表例といえる内容だった。ここでは、本作『スペースマン』のストーリーや描写を見ていきながら、そこで何が描かれているのか、そして同様のSF的題材が現代のクリエイターに人気がある理由を考えていきたい。

アダム・サンドラー演じる主人公は、チェコの宇宙飛行士ヤクブ。彼は、「ユーロ宇宙計画」とチェコが進める、地球外でのミッションを遂行するべく宇宙船に搭乗し、太陽系の端へと半年もの間航行を続けている。とくに国家やスポンサー企業は、宇宙の謎を解き明かすかもしれない成果を期待して、イベントやTV中継などの盛り上げに余念がない。

しかし、あとわずかで目的地に到着するというタイミングで、地球で待っているはずのヤクブの妻レンカ(キャリー・マリガン)が、「あなたとは別れることにした」というビデオメッセージを発信しようとしていることが当局で問題となる。ミッション最重要局面を迎えたヤクブへの精神的負担を懸念した当局と、責任者である長官(イザベラ・ロッセリーニ)は、そのメッセージを隠蔽し、レンカを説得し始めることになる。

一方、レンカとの通話が繋がらないことに不信感をおぼえているヤクブは、驚くべきことだが宇宙船内に巨大なクモのような生物(声:ポール・ダノ)が侵入していたことに気づく。このクモは知的な宇宙生命体で、ヤクブと意思疎通ができることが分かってくる。孤独な“二人”は船内の狭い空間のなかで会話を重ねていき、次第に友情のような関係が芽生え始める。いつしかヤクブは“彼”に、チェコにゆかりのある「ハヌーシュ」という呼び名を与えていた。

ハヌーシュはヤクブに知的好奇心を持っていて、ヤクブと父親との関係や、妻レンカとの関係について聞き出していく。そうしていくうちに、レンカがヤクブと別れたがった理由が、観客にも明かされていくのだ。人類にとって意味のある偉大なミッションが進行するなか、宇宙船内ではハヌーシュの問いかけによって、ヤクブの内省的な探究が続けられていくのだった。当初はヤクブ自身、ストレスからくる幻覚かと考えたように、この奇妙な生物は始めからヤクブの罪悪感からくる想像上の存在だったという解釈も可能だろう。

彼らのやりとりの過程で分かってきたのが、妻との関係や、二人の家庭に対して、ヤクブがケアを怠っていたという事実だ。彼が携わっているのは、人類にとって意義のある国際的、そして国家的プロジェクトであることは確かだが、そのために家庭で起こるさまざまな問題をレンカひとりに押し付けていたのだ。

日本では「内助の功」などという言葉で、社会的に重要だと見られる仕事を成し遂げた男性の妻が、家庭内の問題や仕事の多くを引き受けるといった姿勢が称賛されてきたところがある。もちろん、それは生き方として尊重されるべきだが、そうではない女性……例えば本作のレンカのように、その種のサポートから手を引いたり、「ジェンダーロール(固定観念による性別の役割)」を拒否する生き方もまた、パートナーとの話し合いや分担を経て肯定されなければならないはずだ。

そして、そういった話し合いやコミュニケーションを拒否していたのは、ヤクブの方だったことも明らかになる。レンカの行動は、突然の気まぐれだったり自分勝手な態度などではなく、面倒な問題を先送りにし続けたり、妻に責任を押し付けたヤクブの側が引き起こした状況だったのだ。そして、そのことで妻の側が理不尽にも責められることになる。これは多くの男性にとって“耳の痛い”問題なのではないだろうか。

本作は、このようなテーマについて、かつてチェコでソビエト連邦の「マルクス・レーニン主義」に傾倒したことで批判されることになったヤクブの父親の存在や、ヤクブが一家の名誉を晴らそうとするといった要素、スラヴ民族の神話に登場する水の精霊「ルサールカ」や、それを題材にしたオペラ作品など、いずれも「チェコ」の要素によって補強されている。それは本作の原作者ヤロスラフ・カルファシュがチェコ出身であり、15歳でアメリカに渡ったという経歴が大いに関係していることだろう。ちなみに、この原作者はアニメ専門チャンネル「カートゥーン ネットワーク」を観て英語を学び、セントラルフロリダ大学を主席で卒業し、ニューヨーク大学で修士号を取得した超秀才だ。

興味深いのは、このような家庭内の問題や人間の精神という小さな世界がSF作品のなかで語られるというところだろう。こういった系統のSF映画で名作と知られているのは、アンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』(1972年)だが、近年は『アド・アストラ』でも本作同様に、宇宙飛行士が太陽系の彼方に行くことが、男性の身勝手さの象徴となっていたように、ジェンダーにまつわる固定観念の否定というテーマが前に出てきているものがあるのが印象深い。

とくに最近は、日本でいうところの“純文学”な取り組みとSFのようなテクノロジーを題材にするジャンルが、かつてなく融合してきている感がある。筆者は以前別の媒体で、現代のアメリカのSF小説家を代表するひとりであるケン・リュウに話を聞く機会に恵まれたが、そのときに彼が語っていたのは、テクノロジーがどう発達するかという見通し自体よりも、テクノロジーが社会や人間の生き方をどのように変えていくのか、あくまで人の精神的な部分や社会の変化を描くことに興味があるという話だった。そう考えるのなら、もはや「SF」というジャンルにこだわることに意味がなくなってきているのかもしれない。

もちろん、作家ごとにそれぞれ違いはあるだろうが、この種のジャンルからの逸脱、越境、融合こそが、SF以外においても、現在の多くのクリエイターに共通する作品作りのベースになってきているのではないか。そういった感性が、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022年)や『哀れなるものたち』(2023年)のような、これまでの枠にはまりきらない作品を多く生む要因になっていると思えるのである。

さて、本作のヤクブの精神の旅は、どこに行き着くのか。ハヌーシュが「貯蔵庫」と呼ぶ目的地は、宇宙の過去、現在、未来までの記憶が存在する場所だった。これは、ニューエイジ思想における「アカシックレコード」の概念や、五十嵐大介の漫画を原作とした劇場アニメーション『海獣の子供』(2019年)などが描いた境地に近いものだと思われる。

そこでヤクブは、宇宙の真理に触れることで、自分の妻への振る舞いを改善する成長を見せるだろう。大きなスケールで描く、ごく個人的な変化。大小それぞれを同等の問題として丁寧に考えること、自分の足元を見つめ直すという小さな気づきこそ、本作が語りかける、観客一人ひとりへのメッセージに繋がっているはずである。そして、マックス・リヒターの内省的かつ広がり、奥行きのある音楽が、全てを優しく包み込んでいる。

(文=小野寺系)

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