【我が子の目の前で殺された】 伊達政宗の父・輝宗の壮絶な最期

歴史には悲劇がつきものですが、伊達政宗の父・輝宗の最期はその中でも特に壮絶なものでした。

なんと裏切り行為によって、我が子・政宗の目の前で殺されたのです。

今回紹介するエピソードは、戦国時代という乱世の厳しさや残酷さを如実に物語っているといえるでしょう。

この記事では、輝宗の最期について迫っていきます。

目次

天性の才で伊達家を守り抜いた伊達輝宗

画像 : 伊達輝宗public domain

伊達輝宗は「独眼竜」「東北の雄」など多くの異名を持つ、伊達政宗の父です。

輝宗は、永禄8年(1565年)に家督を継ぎ、出羽山形城主の最上義守(もがみよしもり)の娘・義姫(よしひめ)と結婚しました。
100年近く続いていた乱世は、織田信長の台頭により収束を迎えつつあったものの、奥羽の地はまだまだ群雄割拠の真っ只中。

家督を継いで当主となった輝宗は、自分たちの領土をいかにして守るのかを考え、巧みな外交を行いました。

父・晴宗の反対を押し切って、妹の彦姫を会津の名将・蘆名盛氏の嫡男・盛興に嫁がせて蘆名氏と同盟を結び、いざというときは自分に味方するように約束を取り付けます。

画像 : 奥州の天正年間初期頃(1570年代前半)の勢力図 ※愛姫|福島県田村郡三春町 より引用

また、戦上手で知られる相馬盛胤・義胤父子との対立を解消するため、田村清顕(きよあき)の娘・愛姫を嫡男・政宗の正室に迎えて、相馬氏への切り崩しを図り和睦に漕ぎ着けるなど、堅実な外交を行っていきました。

当時の実力者であった信長に鷹を送ったり、北条氏政柴田勝家とも頻繁に書簡のやり取りを行うなど、幅広い友好関係を築いています。

さらに片倉景綱、屋代景頼、湯目景康ら、多くの有望な若手家臣を選抜し、早くから政宗に仕えさせました。
後の政宗の躍進は、父・輝宗が築いたこうした土台の影響も大きかったでしょう。

このように天下の趨勢を見極める能力が非常に優れていた輝宗は、41歳で18歳の息子・政宗に後を託して自身は隠居します。
41歳といえばまだまだ働き盛り。

隠居して家督を譲るには早すぎると思いますが、その一因として、正室・義姫が政宗を差し置いて、次男の竺丸を跡継ぎにしようと考えていたことがありました。

義姫の意向が家中に伝わってしまうと、家臣の中に義姫派が生まれることも予想されます。
家中を二分しかねない事態を恐れ、輝宗は未然に防ぐため早めの隠居と家督譲渡を行ったとされています。

ようやくこれで安泰…と思えた輝宗でしたが、悲劇に見舞われるのは翌年のことでした。

助けたはずが…裏切られて拉致される

画像:伊達政宗 肖像画。土佐光貞 (1738 – 1806) 筆。東福寺・霊源院所蔵 public domain

天正13年(1585年)当主となった政宗は、田村清顕と共に小浜城主・大内定綱(おおうちさだつな)を攻めます。
これまで伊達家・田村家に従っていた定綱が背いたためでした。

そして定綱と婚姻関係にあった、二本松城主の畠山義継(はたけやまよしつぐ)も政宗からの攻撃を受けて、まもなく降伏。
伊達家の服従を誓わされます。

しかし政宗が畠山義継に出した降伏条件は、非常に厳しいものでした。
大名としての地位を維持できないほど多くの領地を没収し、嫡子を人質に出すように強いたのです。

「何卒、何卒ご勘弁を…」

と義継は政宗に懇願しますが、政宗は頑として受け入れません。
そんな強硬すぎる政宗にまったをかけたのが父・輝宗でした。
さすがにそこまでしなくても…という思いから政宗を説得したのです。

こうして何とか処分を軽減された義継は、礼を述べるために宮森城に居る輝宗の元を訪れました。

「先日は本当にありがとうございました。それではこれにて失礼…」

輝宗へ深々と頭を下げた義継でしたが、なんと急に態度が豹変。

突然、家臣と共に刀を輝宗へと突きつけ、人質として拉致し、馬に乗せて20数人の家臣とともに二本松城に向けて走り出したのです。

息子の目の前で刺殺された輝宗

画像 : 二本松城、箕輪門と附櫓(霞ヶ城公園) wiki c baku13

「なにっ?父上が拉致されただと!?」

報せを受けた時、鷹狩の最中だった政宗はただちに兵を率いて追撃に向かいます。
二本松領に入る寸前で畠山義継の軍に追いついた政宗でしたが、父を人質に取られているため攻撃が出来ずにいました。

「政宗、なにをしている!私もろとも義継を討ち果たせ!伊達の家門に恥を残すな!」

輝宗が息子・政宗に向かって叫んでいるのを聞き、義継は「もはやこれまで…」と観念し、輝宗を刺しました。

「父上っ!」

これ以上逃げるのは不可能、と悟った義継によって輝宗は刺殺されたのです。
享年42。

天賦の才で伊達家を守り続けた輝宗は、我が子の目の前で亡くなったのでした。

おわりに

輝宗は戦況を読み解く能力が非常に優れており、伊達家を守り抜きました。

しかし、自ら助けた義継の裏切りによって命を落とす結果になってしまったのはなんとも皮肉です。
ちなみにこのエピソードは、政宗側からの銃撃で亡くなったとする説もあります。

いずれにせよ、戦国時代ならではの無慈悲な結末の一つといえるかもしれません。

参考 :
残念な死に方辞典 監修:小和田哲男
粟之巣の変事とは~独眼竜「伊達政宗」非情の決断と父との別れ | 戦国武将研究会

© 草の実堂