全電源喪失。“電力マン”の誇りと自負…葛藤の末に行き着いた「人が造るものに絶対はない」。福島第1原発の元運転管理者は、日々つづった日記をめくり始めた。

毎日付けていた日記を手にする穗崎一豊さん(本人提供)

 2月下旬、東日本大震災を知る住民に話を聞こうと福島県いわき市を歩いていると、福島第1原発の事故直後から現地で対応に当たった東京電力元社員の穗崎一豊さん(66)=同市=と出会った。「原発がある鹿児島から取材に来た。教訓を聞かせてほしい」。記者の頼みに、ためらいながら重い口を開いてくれた。

 福島第1原発3、4号機の運転管理者も務め、“電力マン”としての誇りを持っていた穗崎さん。事故後の業務内容は、電気を生み出す仕事から、廃炉作業に当たる職員の労働環境の整備へと一変した。

 自宅まで取材に来た記者もいたが、全て断ってきた。今回初めて応じたのは、心のどこかで「想定を超える災害への覚悟がなければ悲劇は繰り返される。記憶が薄れぬうちに後世に伝えるべき」との思いを抱え続けてきたからだ。毎日書き続けた日記を基に振り返った。

 13年前のあの日、原子力の安全神話は崩れた-。事故6日後の3月17日、消防や自衛隊を原発まで誘導する役として、出向先の青森県の原子力関連施設から福島に招集された。

 拠点の「Jヴィレッジ」から福島第1原発までは約20キロ。車で30分程度の距離だが、国道が地震で陥没して通れず、裏道を使い1時間半かけて誘導した。

 食料はもちろん、とにかく物がなかった。作業員の防護マスクが足りず、繰り返し使うしかなかった。少しでも快適に使えるよう、しみこんだ汗を夜通し布で拭き取った。12日間、一度も風呂に入れない劣悪な環境。作業員はいら立ち、怒号が飛び交う現場は「戦場のようだった」。

 原子力は低コストで安定供給できるベースロード電源と信じていた。「花形の仕事に就き、自分たちの作った電気が関東に送られているという自負があった」と明かした。

 地震や津波による事故を想定した訓練を何百回も重ねてきた。しかし想定をはるかに超える15メートルの大津波に襲われ福島第1原発は全電源を喪失。「現場の作業員も手を尽くしたがお手上げ状態」。見切りをつけた同僚が何十人もいたが、思い入れのある職場を見捨てるわけにいかなかった。2014年に東電を退職後も放射性物質が飛散した関東で放射線の影響に関する説明会の講師を務めるなど、22年春まで原発事故と隣り合わせの日々を過ごした。

 薩摩川内市の川内原発をはじめ運転中の原発は、厳しい安全の基準をクリアしている。穗崎さんは「それでも人間が造るものに絶対はない。しかし失敗から学ぶことはできる。私はそれを信じたい」。絞り出した言葉に、電力マンの葛藤の日々が透けて見えた。

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