日本ボクシング冬の時代…世界挑戦21連続失敗の足跡、大橋秀行が終止符

Ⓒゲッティイメージズ

井岡弘樹が初代ミニマム級王者になってから続いたトンネル

挑んでも挑んでもはね返される日本選手。1980年代後半は日本ボクシング界にとって「冬の時代」だった。

「最後の切り札」と期待されていたのが大橋秀行(ヨネクラ)。現在、井上尚弥が所属する大橋ジムの会長だ。自身も2度の世界挑戦に敗れ、3度目の正直を懸けて挑んだのがWBCミニマム級王者・崔漸煥との一戦だった。

それ以前の世界挑戦で勝ったのは1987年10月18日、井岡弘樹(グリーンツダ)がマイ・トンブリフラム(タイ)に判定勝ちしたWBCミニマム級初代王座決定戦が最後。以降、日本のジム所属選手は下表の通り、実に21試合連続で世界挑戦に失敗していた。

大橋秀行自身も名を連ねた不名誉記録

1988年1月17日、元WBAバンタム級王者・六車卓也(大阪帝拳)がウィルフレド・バスケス(プエルトリコ)と引き分けたのが「冬の時代」の始まりだった。ちなみに21連敗と紹介されることがあるが、この試合があるため21連続失敗が正しい。

神代英明(グリーンツダ)はソット・チタラダ(タイ)に7回TKO負け。アメリカでマーロン・スターリング(アメリカ)の持つWBAウェルター級王座に挑んだ尾崎富士雄(帝拳)は、王者のマウスピースを吹き飛ばす善戦を見せながらも12回判定負けを喫した。

横沢健二(三迫)はレオ・ガメス(ベネズエラ)に3回TKO負け。1988年6月27日には2度目の世界挑戦だった大橋秀行が後楽園ホールでWBCライトフライ級王者・張正九(韓国)に挑み、右カウンターでぐらつかせて場内を沸かせたが最終的には8回TKO負け。王者は15度目の防衛を果たし、大橋自身も連続失敗の不名誉記録に名を連ねることになった。

1988年7月と9月にはWBCスーパーフライ級王者ヒルベルト・ローマン(メキシコ)に内田好之(上福岡)と畑中清詞(松田)が連敗。六車卓也は1階級上げてWBAスーパーバンタム級王者ファン・ホセ・エストラーダ(メキシコ)に挑んだが、11回TKO負けした。

日本選手の前に立ちはだかった韓国人王者

この頃、日本とは逆に隆盛を誇っていたのがお隣・韓国だ。多数の世界王者を抱え、日本選手の前に立ちはだかった。

フィリピンからの輸入ボクサー・エミール松島(洛翠)はWBCフライ級王者・金容江に、小見山カツミ(ハラダ)はWBAライトフライ級王者・柳明佑に、小林智昭(角海老宝石)はWBAバンタム級王者・文成吉に、レパード玉熊(国際)は金容江に相次いで敗れた。

1989年3月26日にはプロ野球の日本ハムで活躍した杉谷拳士の父・杉谷満(協栄)がWBAフェザー級王者アントニオ・エスパラゴサ(ベネズエラ)に10回KO負け。松村謙二(加古川神戸)はカオサイ・ギャラクシー(タイ)に、平仲伸章(沖縄)はファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン)にいずれも判定で敗れた。

井岡弘樹(グリーンツダ)はナパ・キャットワンチャイ(タイ)とのラバーマッチで11回TKO負けし、同門の大鵬健文(グリーンツダ)も柳明佑に敗れた。

さらに松村謙二はカオサイ・ギャラクシーとの再戦に12回TKO負けし、尾崎富士雄の世界再挑戦もWBAウェルター級王者マーク・ブリーランド(アメリカ)に4回TKOで完敗。田島吉秋(協栄)は白仁鉄に、徳島尚(グリーンツダ)も柳明佑に、いずれも韓国で倒された。

これで世界挑戦21連続失敗。「切り札」大橋秀行が敗れれば、さらに連続失敗記録は伸びるだろうと思われていた。

「伝家の宝刀」左ボディーでピリオド

1990年2月7日、後楽園ホール。日本中が勝利に飢えていた。大橋は旺盛なスタミナと手数で攻め込む崔漸煥にカウンターで応戦。ショートレンジでの打ち合いを制し、徐々に王者の顔を腫れ上がらせる。

迎えた9回。疲労の色が濃い崔漸煥の腹に「伝家の宝刀」左ボディーアッパーをめり込ませ、最初のダウン。立ち上がって猛然と反撃してくる王者にもう一発、左ボディーアッパーを打ち込むと崔は再び顔を歪めて倒れ、今度は起き上がれなかった。

歓喜のテンカウント。

跳び上がって喜ぶ大橋はトレーナーに肩車されて何度もガッツポーズ。割れんばかり大歓声に包まれた後楽園ホールの観衆から自然発生的に万歳三唱が沸き起こった。

その4日後の2月11日、世界王者となった大橋は東京ドームでマイク・タイソンvsジェームス・ダグラスを観戦。「世紀の大番狂わせ」を目の当たりにする。

それから、さらに34年。今度はその東京ドームで自身のジムに所属する4選手が世界戦のリングに立つ。日本ボクシング界は世界王者が9人もいる活況だ。「冬の時代」にピリオドを打った大橋がそれを牽引しているのも偶然とは思えない。



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