「差別やめ、認めてほしい」 長崎の被爆体験者・濵田さん 不条理への怒り原動力 訴訟が9月判決 

 「おかしいじゃないか」。その思いに突き動かされてきた。長崎県長崎市かき道1丁目の濵田武男さん(84)は5歳の時、爆心地から8.3キロの旧西彼矢上村で原爆に遭った。この場所は国が定めた被爆地域外。「被爆体験者」とされてきても、思いは変わらない。「われわれは被爆者だ」
 8月9日。自宅のニワトリ小屋で兄とえさを与えていた。飛行機がふと目に入った瞬間、閃光(せんこう)を浴び、爆音を聞いた。急いで家に入るとガラスが全て割れていた。やがて空が真っ暗になり、何かが降ってきた。家の周りに灰が積もり、それらが浮いた井戸水を飲んで暮らした。40代から不眠や皮膚がんなどに悩まされた。
 被爆体験者を救済する事業が2002年から始まり、「被爆体験者医療受給者証」を手にした。3年後、市は突然、制度を改正。理由は「予算を超えたから」。被爆体験に伴う精神疾患とその合併症に限り医療費を支給する「被爆体験者精神医療受給者証」に変わった。「おかしい」と訴えたが、答えはなかった。
 07年ごろ、制度の不合理さを指摘する弁護士らと出会い、第1陣訴訟に加わった。被爆体験も病気もあり、距離も被爆地域と変わらない。認められないのはなぜか-。不条理への怒りが原動力になった。
 17年の最高裁判決。法廷で「敗訴」と聞き、心が折れた。長崎までどのようにして帰ってきたか、記憶がない。仲間への説明や今後を考えると、身体も頭もついてこなかったのだろう。
 「最後までおかしいと言う」。再び被爆者認定を求める訴訟に加わったのは19年。多くの仲間が亡くなり、資金や体力の問題で離脱。約50人いた地区の仲間は3人になっていた。
 21年の広島高裁判決。国の援護区域外で放射線物質を含む「黒い雨」に遭った被害者を被爆者と認めた。「(体験者も)これで認められる」。光が差したと思ったが、長崎は適用外。被爆者と体験者、広島と長崎-。新たな差別が生まれ、焦りだけが募る。
 17年間に及ぶ訴訟は今年9月、長崎地裁で判決が言い渡される。「差別をやめ、被爆者と認めてほしいだけだ」

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