「震災のことはどんどん忘れ去られていく」福島から1000km離れた高校生が見た“現実”

東日本大震災の発生から13年。
去年(2023年)、愛媛県で避難生活を送る人たちが、高校生と被災地をめぐりました。

「あの時、何があったか知ってほしい」
「どんなことがあったのか知りたい」

避難した人たちと高校生たちが被災地をともに歩き、何を感じたのでしょうか。

―― 2023年8月。
松山市内で次々とバスに乗り込む高校生たちがいました。目的地は東北、東日本大震災の被災地です。

(松山学院高の生徒)
「3.11という大きな地震があり、将来南海トラフが起こるといわれているので、自分たちで対策やどのような準備をしたらいいのか考えるようになり参加しようと思った」
「被災地でどんなことがあったか、自分たちがまだ小さかった時なので知りたい」

「どんどん忘れ去られていく」被災地で何があったか知ってほしい…

被災地の訪問を企画したのは、福島第一原発事故のため福島県南相馬市から愛媛県松前町に避難している渡部寛志さん(45)。

愛媛で避難生活を続ける仲間と一緒に、当時の記憶を若い世代に繋げるプロジェクトを立ち上げ、高校生たちに声をかけてきました。

(渡部寛志さん)
「東日本大震災のことはどんどん忘れ去られていくし、ぜひ皆さんの力を貸してもらいたいと思っています。被災地と呼ばれるところで何があったか知ってほしい。知るところから始めてもらえれば」

渡部さんたちの考えに、松山市にある松山学院高校が賛同。今回の訪問には生徒に加え、大学生や小学校の教諭などを含め総勢25人が参加しました。

岩手、宮城、そして福島を巡る6日間の旅。生徒たちは現地で何を感じるのか…。

約10mの津波は2階の天井まで…岩手で生まれた教訓とは

―― 愛媛からバスに揺られ約20時間。
まずは岩手で現地の人から津波被害の実態を直接聞きます。

(いわてTSUNAMIメモリアルの職員)
「岩手県では『津波てんでんこ』という教訓が生まれました。『てんでんこ』というのは、それぞれバラバラに、自分の命は自分で守りなさいという意味が込められています」

次に向かった宮城県山元町では、津波に襲われた中浜小学校を訪問。高さ約10mの津波は、校舎2階の天井付近にまで達したそうです。

遡上した津波によっては川が氾濫したと話す語り部の男性。生徒たちは体験者の貴重な証言に触れることができました。

被災地の訪問を企画した渡部寛志さん。高校生たちに見てほしかった場所の一つが福島の故郷です。

「腕とかも取れていた」そういう話がいっぱい転がっていて…

―― 福島県南相馬市小高区。
津波と福島第一原発の事故に襲われたこの町には、渡部さんが通った旧福浦幼稚園と旧福浦小学校があります。

一行を出迎えてくれたのは、福浦幼稚園の元園長、遠藤百香さんです。
震災直後、避難所になっていた幼稚園と小学校。遠藤さんがあの日の記憶をたどります。

(福浦幼稚園・元園長 遠藤百香さん)
「避難所に来た消防団の人が『俺な、津波で亡くなったおばあちゃんの顔を素手で拭いてやった』って言うの。そしたら『おばあちゃんはとても苦しい顔をしていて、腕とかも取れていた』って。そういう話がどこでもいっぱい転がっていて、辛い思いを次の日からしなければならなかったのは、事実です」

遠藤さんから旧福浦小学校についても説明を受けた生徒たち。校舎を前に率直な疑問を口にします。

「なぜ廃校に…」戻らなかった“人”

(松山学院高の生徒)
「こんなきれいなまま残っていてなぜ廃校に…」
(福浦幼稚園・元園長 遠藤百香さん)
「残念ながら子どもが戻ってこなかったので。再開はできませんでしたね」

小高区の避難指示は、原発事故か5年後に大部分が解除されました。
しかし、居住人口は震災前の3割しか戻らず、2021年に福浦幼稚園も福浦小学校も廃校となりました。

渡部さんが通った思い出の学び舎からは今、子供の声は聞こえません。

未だ避難指示が解除されず…自宅に続く道には“バリケード”

―― 最終日、生徒たちが訪れたのは、福島第一原発が立地する双葉町です。
ここで生徒たちを案内してくれたのが、双葉町から愛媛県松山市に避難している澤上幸子さん。

渡部さんと、震災の記憶を若い世代に伝えるこのプロジェクトを進めています。

澤上さんの自宅がある地域は、未だ避難指示が解除されていません。今回、生徒の保護者や町の同意を得て、希望した子どもだけ連れ自宅に向かいました。

途中、スクリーニング場に立ち寄り、放射線量を計る機器や防護服を受け取ります。

(福島県双葉町から松山市に避難・澤上幸子さん)
「ここで行きも帰りも通って検査を受けます。手続きがないと家に帰れないというのも、12年経っても変わらない」

自宅に続く道にはバリケードが設けられています。通過する際は警備員に身分証や許可証を見せます。

澤上さんの自宅があるエリアは、避難指示の中でも立ち入りが特に厳しく制限されている帰還困難区域です。

滞在できるのは一日に最大7時間、原則年間30回までです。

バリケードの先に車を走らせると、目に飛び込んでくるのは手入れもされず、草木が生い茂った景色。

その中には動物が入ってこないようラジオをつけっぱなしにした家もあります。福島第一原発からおよそ5キロ。澤上さんの自宅が見えてきました。

2011年のカレンダー、目の当たりにした“現実”

(福島県双葉町から松山市に避難 澤上幸子さん)
「どんどんひどくなっていく。夜、動物たちが入って荒らしてっていうのを繰り返している感じ」

天井などに空いた穴から動物たちが侵入したのか、あちこちにフンが散乱しています。

靴を履いたままでなければ部屋に入れません。さらに、人なのか、それとも動物なのか、窓には割られた跡もあります。人が生活しないため、床は傷み今にも抜けてしまいそうです。

震災翌日、最低限の荷物を手に避難した澤上さん一家。荒れ果てていく我が家が時間の経過を物語ります。

壁に懸けた2011年のカレンダー、地震の揺れで散らかった部屋。すべてが当時のままです。

子どもたちが遊んでいたおもちゃや衣服、それに家具…。荒れ果てた部屋の中で、そこに生活があったことを告げています。生徒たちが、初めて触れ、目の当たりにした現実です。

(松山学院高の生徒)
「コロナは3年でおさまったのに、東日本大震災は12年経ってもなにも変わっていない。悲しいですよね」
「なかなか帰れない状況の中で、いま自分が普通に家に帰れて家族と過ごし、ご飯を食べられる事実に感謝しようと思った」

(福島県双葉町から松山市に避難・澤上幸子さん)
「こういう線量高い所に子どもたちを連れてくるのは悩ましい所ですけれど…。ただ得るものの方が大きいと思うので、保護者に説明会もして承諾の上で来た。復興の影には、こういう変わっていないものもあるというのを実感してもらえれば」

生徒たちは何を感じたのか…“他人事”ではなく“自分事”へ

当時はまだ幼く震災の記憶がない生徒たち。被災地を自ら歩き、何を感じたのでしょうか。

(松山学院高の生徒)
「来てよかったとすごく思った。多分、愛媛にいたら3.11に対してこんなに感情が大きくなることはなかった」
「これからは、自分がこのことを自分の身の回りの人たちから知ってもらえるように伝えてきたい」

(福島から愛媛県松前町に避難・渡部寛志さん)
「私自身は学生たちに知ってもらえて嬉しかったし、ありがたかった。2度と同じ目には他の人にはあわせたくない、同じ過ちは繰り返させたくない、という思いがある。そうつなげることが出来る第一歩かな、と思う」

“他人事”ではなく“自分事”へ。渡部さんたちは、こうした活動で記憶の継承が次の教訓に繋がると信じています。

震災の記憶、自分たちの経験を同世代へ

訪問後、生徒たちは被災地で見たり感じたりしたことを愛媛の同世代の人たちに伝えようと、現地で撮影した映像を動画にまとめました。

(松山学院高校の生徒)
「自分たちが知らないだけで、これだけのことを知らないことが悲しいという気持ちになりました。見てくれた人が考え、意識を持ってもらえるような動画になれば」

東日本大震災から13年。震災の記憶を伝える活動は、福島から1000km離れた愛媛の地で、少しずつ広がり始めています。

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