小さな葬儀社がみた3.11「東日本大震災で亡くなったご遺体はお顔だけが驚くほどきれいでした」

多くの人が亡くなった東日本大震災。写真はのちに火葬することを前提とした仮埋葬の様子(写真:石井健)

掃除は大変でした」

きみ子さんは、ときに仕事とはまったく無関係な長電話に付き合うこともあるという。

「関東に住む、30代と思しき女性からでした。幼いときから関係が悪く交流の途絶えていたお母さんが、急逝したと連絡が来て、彼女は直葬で済ませたんだそうです。

でも『ずっと引っかかってる』と言ってました。『戒名もつけてあげなかった』『ちゃんとしたお葬式を出してあげられなかった』と」

いしはら葬斎のホームページを見て、自分の胸の内を聞いてほしくて電話をかけてきたという。涙ながらに語る女性に、きみ子さんは優しく、こう諭したという。

「いいんじゃない、別に戒名はつけなくても。それで困って戻ってきたって人、私は見たことないもの。それよりも、ずっとわだかまりがあったお母さんを、あなたはきちんと送ってあげた。そっちのほうがずっと大事。偉かったわね」

電話の向こう側では女性の啜り泣きが長い時間、続いたという。連日のように、人の死と向き合う石原さんたち。「正直言うと、それぞれの詳細はあまり覚えていないの」ときみ子さん。「引きずらないことが、この仕事を続けるコツなのかも」とも。

だが昨年末、引きずらないはずのきみ子さんの胸を、いまなお締めつける、そんな仕事があった。

「遠方から車でこっちに来て、自殺してしまった男性がいて。彼のことを迎えにきたご両親と会ったんですけど……。親御さんたちの姿を見ていたら、もう……」

朗らかに、インタビューに応じてきた彼女の目から、不意に大粒の涙がこぼれ落ちた。

「いつもどおり出て行った息子が、変わり果てた姿で見つかったわけだから。ご両親、警察から引き取った車をそれは丹念に調べたそうです。そうしたら、ドライブレコーダーに、彼の足取りや最期のようすが鮮明に映っていたと……」

人生最後の日、彼は大好きな祖母とよく訪れた店にランチに立ち寄るなど、思い出の場所を巡っていた。やがて、いわき市に入った車は、遺体が発見された駐車場へ。目元を拭い、きみ子さんは続けた。

「彼は車内で練炭をたいて命を絶ってしまったんですが。ドライブレコーダーには、彼が車窓に淡々と目張りをする様子まで残っていたそうです。

それを見たというお母さん、誰に向けてでもなく、絞り出すように言ったんです。『このとき、あの子はどんな気持ちだったの?』って。それ聞いて私、一緒に泣くことしかできなくて……」

それまでも、一人さみしく自死した人を、何人も送ってきた。

「自ら死を選ぼうとする人に向かって『頑張れ』と言うのは、酷なこととはわかってますけど……」

こう前置きしながら、きみ子さんは言葉を継いだ。

「自分で選んで、そして逝くことができたってことは、神様の許しが出たってことかもしれないですよね。でもね、あのときのお母さんの、打ちひしがれた姿を見たら、息子さんに『そんな勇気があるのなら』って言ってやりたくなった。『どうしてなの?』って、どうしても思ってしまうんです……」

自身も3人の子の母であるきみ子さん。潤んだ目で語るその表情は、すっかり母の顔になっていた。

■「震災のご遺体はお顔だけが驚くほどきれいでした」

創業から1年ほどたった2011年3月11日に発生したのは、多くの人にとって忘れ難い出来事となった東日本大震災。それは、石原さん夫妻にとっても、同じだ。

いわき市を襲った地震は震度6弱を観測したものの、石原さんたちのいた好間地区の被害は比較的軽かったという。石原さんたちは、震災翌日からドライアイスを遺体安置所となった総合体育館に運び込むなど仕事を再開。

そして、いしはら葬斎では震災の犠牲となった4人を弔うことになった。そこには、孤独死の遺体を見送るときとはまた違った二人の気持ちが込められていた。それは「なんとしても家族のもとに返してあげたい」という、祈りにも似た思いだ。

発災から間もない3月下旬から4月上旬にかけて、犠牲となった女性3人の火葬を任された。「思い出すと、いまも涙が出てくる」と充さんは目頭を押さえ語り始めた。

「瓦礫の下から発見されたご遺体でした。しかも、亡くなってから、日数も経過していた。それなのに、うちがお預かりしたとき、体は傷だらけで、髪は砂まみれでも、お顔だけは驚くほどきれいだった。3人が3人とも、そうなんです」

充さんは、彼女たちの一念が起こした奇跡のように感じていた。

「きっと、離れ離れになってしまった家族に向けた『早く見つけて、私はここよ』という強い願いが、お顔だけは状態のいいままで見つけさせたんだな、そう思いました。私が常々『生きてる人と同じ』と考え、ご遺体と接しているのも、そういう経験があるからなんです」

翌年にも犠牲者を一人、送った。きみ子さんが振り返る。

「震災から1年ほどたって、やっと少し落ち着いてきたころ。警察からの連絡で、市の沖合で見つかったご遺体を預かったんです」

海中を1年間も漂っていた遺体。さすがに身元はすぐには判明しそうになかった。充さんが続ける。

「そのご遺体に手足はなく、顔の形もすっかり崩れていた。警察はDNAを鑑定し、被災各地の不明者情報と照合する作業をしていましたが、うちに来たときはまだ、どなただかわからない状況でした」

身元がわからないまま、この犠牲者を火葬した。それから、およそ半月後。市役所から連絡が入った。きみ子さんは、12年も前のことを振り返りながら、まるで昨日のことのように顔をほころばせた。

「ご遺体の身元が判明したんですよ。宮城の南三陸で津波に遭い流されてきた人だと。それを聞いて、私と夫はもちろん、いっしょに収骨してくれた火葬場の職員さんたちもみな、感激して泣きましたよ。

『よかった、これでご家族のもとに帰れるね』って。姿形はすっかり変わってしまっても、帰るべき場所に帰ることができて、故人様はきっと、幸せだったと思います」

■「私たちには“お墓”はいらない。」

「みながみな、直葬や家族葬にする必要もないとは思います。でも、子どもの数も減り、コロナ禍も経て、家族の形もどんどん多様化した現代に、私たち世代や上の世代のいう『一般的な葬儀』とか、『ちゃんとしたお葬式』という考え方にとらわれるのは、もうあまり意味がないと思いますよ」

きみ子さんはこう話す。石原さん夫妻が過去に立ち会ったなか、もっとも理想的と思えた葬儀。それは伝統やしきたりに縛られない故人の送り方だった。

「奥様を亡くされた70代のご主人が喪主を務めたのですが、考え方がとても現代的で。『戒名も読経も墓も不要、家族でにぎやかに送れれば、それでいい』と。その葬儀は、本当に印象的でした。参列したご家族、みなさんがゆったりと時間を過ごしながら、笑顔で故人様をしのぶ、温かな家族葬でした」

取材の最後、石原さん夫妻の思い描く「自分たちの最期」を聞いた。語られたのは案の定、一般的でもなければ、伝統やしきたりも度外視した最期だった。

「私たち、献体するって、結婚当初に決めたんです」

きみ子さんは愉快そうに笑った。

「私も夫も、子どもはいますがどっちも当てにはならないし、当てにもしたくない。二人で『お墓なんていらないもんね』と話をして。それで。献体を申し込んだんです。お骨はみなさんと一緒の永代供養墓に納められることになってます」

インタビュー中も、事務所の電話はひっきりなしに鳴った。夫婦二人だけの小さな葬儀社は、今日も、開いている。どんな最期を迎えた人でも、受け入れるために。「はい、いしはら葬斎です」

(取材・文:仲本剛)

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